ミュージシャン時代の生活

ミュージシャンとして収入を得ていた期間は約10年。
プロに成り立ての頃、先輩ミュージシャンに「10年出来れば本物だよ」と言われた事が今でも思い出されます。

ハッキリ言って、好きな事をやって収入を得る・・・って実は本当に大変な事でした。
サラリーマンのように通勤電車に乗ったり、決まった時間に出勤したりなんて生活とはまるで正反対の生活振りでした。

まずは収入の話しから。
私達レベルのミュージシャンだと、駆け出しの頃ですら最低でも1ステージ(1日2ステージなんてのも含まれます)30000円くらいは貰っていました。
当時(1980年位)のトップランクのミュージシャン達で、1ステージ100000円くらいだったと聞いていますし、実際に貰っている人も知っていました。
私が最後の2~3年で最高で1ステージ70000円くらいでした。
だいたいリハーサルってその半額ってのが相場でした。
放送関係の仕事もだいたい同じ位のギャラでした。

ステージとは別にCMやら劇伴やらチョットしたレコーディングなんかは私レベルでは時間あたり5000円~8000円でした。
トップのスタジオミュージシャンの方達は2~5倍は貰っていたでしょう。

20歳そこそことしては、普通に働くよりも収入は良かった方だと思います。
やはり収入の殆どは、楽器・レコード代・コンサートのチケットに費やしていました。
又、移動は殆どが車なのでガソリン代も馬鹿になりませんでした。
意外にお金が掛かるのが洋服代でした。(私服での演奏が多かったので・・・)確定申告の時、衣装代として落としていました。レコードとコンサートのチケットなんかは、研究費・・・という名目で落とせました。
私の場合ギターの弦にはかなりのお金が掛かりました。ちなみに弦とかピックは消耗品としてなんとか落としたもんです。

お金の話はそのくらいにして、普段の生活ぶりを話します。
基本的に夜型の生活になってしまいます。
一度リハーサルをスタジオの関係で午前中にやる・・と言う話しがあった時、バンドメンバー全員が却下したのを覚えています。
リハーサルって基本的に飲食代は全て事務所持ち。コンサートで地方に行っても移動中の食事から当然コンサート後の打ち上げも事務所持ちなので、自分で使うお金ってホントに煙草代くらいでした。

基本的には自由業なので、休みも不定期ながら結構ありました。
真面目に練習したり、友人のライブやリハを見に行ったり、友人と集まって深夜まで音楽談義したり・・・とかなり色々な事が出来ました。(休みの日の方が忙しいくらいでした)

だいたい友人と待ち合わせたりするのも、リハ終わりとかが多くて深夜に待ち合わせなんて事も多々ありました。

一度放送の仕事で、フジテレビのお昼の番組(タモリが司会をする前の番組)でギターを頼まれた時、朝の8時入り・・・と聞いて徹夜して行ったのを覚えています。

地方に行く時ってだいたいが始発の新幹線か早朝便の羽田のパターンが一番多かったです。(知り合いのミュージシャンなんかに会うのも凄い確率でした)
そんな時も殆ど徹夜状態で、移動中に爆睡したもんです。
そのくらい朝の生活には馴染めない状態でした。

友人の殆どは音楽関係の人になってしまいます。
だいたい誰それが○○スタジオでリハをやってるから見に行こうか・・・とか、○○バンドの誰々を紹介するから・・・とか、新しいレコード買ったから聞きにおいでよ・・・とか○○のライブ見に行かない?なんて事だらけでした。

当時は携帯電話なんて物は無く、絶対必需品が留守番電話でした。
留守電に事務所関係(殆どが当時のインペク屋さん)からの業務連絡やら、友人達のお誘いなんかが入っていました。

だいたい電話自体、友人に掛けるのに午前中は遠慮してしまう状況で、逆に夜は2時でも3時でも電話が鳴る事は日常茶飯事でした。

だからと言って、荒れた生活だったかと言うとそんな事は無く、深夜のファミレスで音楽について熱く語ったりした事が今でも本当にいい思い出だったりします。
良く行ったお店って、青山のデニーズか赤坂のジョナサンとか、原宿のロイヤルホストとか、世田谷近辺や多摩地区の知り合いが多かったので、仙川のストロベリーファームなんかも行ってました(当時は基本的にお酒は殆ど飲まなかったです)。今剛さんの奥さんが歌を唄っていた頃友人に紹介されたのもそんな場所でした。

あとは、友人関係のライブに頻繁に足を運んだり、向こうからも私のライブやリハに足を運んでもらったり、そうやって友人の輪が広がって行ったんですよね。
特に都内でやるライブの楽屋って訳のわからないモデルやら、クリエーターだと名乗ったりする変な人がやたらと入って来て、結構困った事もあります。(私事ですが、かみさんと知り合ったのもとあるライブの楽屋でした。)
そういう友人関係って結構仕事に直結する事が多くて、オーディションの情報やら紹介でバッキングをやったりとか本当に大切なものでした。

そんな私でも一番時間を費やしていたのは、音楽を聴く事でした。常に最新の音楽の情報を仕入れておかないとやっていけない状況でした。目新しい物や、ヒットしている物は必ず聴くようにしていました。
ですので、移動中は殆どウォークマンを聴いていました。
意外とやらなかったのはコピー以外のギターの練習でした。(ジャズだけは先生について習っていたので別ですが)なんたって仕事でギターを弾くのが一番の練習になっていましたから。
長いリハの後なんて、ギターを触る気も起きなかったです。

今のミュージシャン達ってどんな環境なのかあまり分かりませんが、私がやっていた頃のバッキングミュージシャン達の生活って意外とこんなもんだったと思います。
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EMGとストラト

EMG!いわずと知れたアクティブピックアップ。

EMG00.jpg

80年代前半、突如現れて大流行したピックアップです。
アクティブ回路は70年代後半から“アレンビック”などが採用していましたが、いまいちギターの音としては敬遠されがちな機械的な音でした。(個人差はあるでしょうが、一時所有していた私が言うんですから当たらずとも遠からず・・・と言う事で)

ルカサーがバレイアーツを使い出す前に、トトのプロモでフェンダーのストラト(サンバーストにローズネックでした)にEMGとフロイトローズのセットで弾きまくる姿を見て、自分も試してみようと興味を持ちました。

前の日記でテレキャスターの話を書きましたが、その時の工房でストラトを組んで貰いました。
ネックはテレキャスと同じくアメリカから直輸入したネックをチョイスして、ボディーはその工房の人に任せました。当然ネックはエボニー22フレット。テレキャスが黒だったのでボディーは白でお願いしました。
フロイトローズに関しては通常のスペックの物を使用しました。

問題はEMGの方でした。
アッセンブリーで売っているのは、SSHバージョンばかりでした。
やはりストラトはリア+センターのハーフトーンが一番の使い勝手のある音なので、スリーシングルのアッセンブリーを探していました。(カールトンのバレイアーツもスリーシングルだったと思います)
工房の友人が探してくれたのが、フェルナンデスで出していたストラトに付いていたアッセンブリーでした。
そのアッセンブリーは当然スリーシングルで、トーンの回路がチョット違っていてミドルのブーストが出来るタイプでした。

ミドルをいじれる回路って今で言うフェンダーのクラプトンモデルやベックモデルに使われているのと同じだと思います。

フェルナンデスの回路をそっくり移植してもらって、ストラトに付けてもらいました。
入手経路は不明でしたが、当時のフェルナンデスのゴールドのピックガードまで付いたアッセンブリーでした。

白ボディーにゴールドのピックガード・・・中々派手でいい感じでした。(私も若かったですからね)

そのストラトは私の現役時代の後半は、常に持ち歩く程気に入って使っていました。

まずフロイトローズの事から。
アーム自体をギンギンに使うようなプレイってあまりしない方でしたが、ロック調の曲でブレイク後にハーモニックスのアームダウンなんか使うと、やたらと気持ちよかったです。
又、白玉で1小節コードで弾くような時にアームダウンなんか使うと、かなりいい雰囲気を出してくれました。
最大のメリットは、何日経ってもチューニングが狂わない事。これは本当に感激しました。
ステージなんかでもほとんど最後までチューニングの狂わない方法は、フロイトローズ以外に方法は無いでしょう。

次はEMGについて。
とりあえずEMGって基本的にフラットな特性のピクアップなので、アクティブ回路で音を作る訳ですが私が一番気に入っていたのは、やはりミドルレンジをいじれる事でした。
バッキングの時にはミドルはフラットにして、ソロでミドルをブーストすると本当にストラトとは思えない太い音になりました。
エフェクト関係のノリもメチャメチャ良くて、本当に当時の先端の音だったと思っています。
ノイズの無い事も特筆すべき点でした。(ステージって照明なんかの影響でノイズ拾っちゃうんですよね)

ストラトって他のタイプでは、センターのみの音って意外と使わない人が多いですよね。
ところが、EMGの付いたストラトで私の一番好きだった音は、センターのみのクリーントーンでした。
この音ってやはりアクティブのなせる技か、他のストラトでは出せない芯のある抜けのいい音です。
ラインで録ると特にいい音しました。

スタジオの鳥山さんも同じタイプのストラトを使っているのを見た時、センターでメロを弾いていました。
私の思っていた通りの音でした。

このストラトは、今も手放して後悔しています。
行った先は私の妹がアメリカ在住を決意した時に、妹の旦那さんに餞別がわりに持たせてしまいました。

エフェクターボックスの話し

前回の日記でひょんな事でスタジオギタリストの松原正樹さんと面識を持った私は、当時松原さんが使っていたエフェクターボックスに目が釘付けになりました。

コンパクトエフェクター数10種類を一つのケースに収め、専用のフットスイッチでオン・オフするという当時のギタリストが憧れのエフェクターボックスでした。
外観は蓋を閉じてしまえばただのジュラルミンケースでした。
若かった私は最高に憧れました。

松原さん本人には聞けなかったので、松原さんの事務所の方に「どこで作ったんですか?」と聞いたところ、快く製作者の連絡先を教えてくれました。
スタジオ機材のリペアなんかを専門にやっている“EEW”という会社の人でした。
会社は横浜の上大岡にあり、私もなんとか頼みこんで製作を依頼したんです。

そこの会社で作った1号機が松原さんので、2号機が吉野藤丸さんで、3,4号機はとあるギタリストとベーシストに作ったとの事でした。
したがって私のが5号機になる訳です。(当時エフェクター大辞典という大袈裟な雑誌に完成直後の私のエフェクターボックスが掲載されたんですよ)

中身に何を入れるかは、手持ちのエフェクターを全部・・・と言う事でお願いしました。
また完全ステレオ仕様になるようにしてもらいました。

肝心の中身ですが、MXRのダイナコンプとフェイズ100とディストーションプラスとステレオコーラスとフランジャー、ボスのオーバードライブとCE-1、TCのフェイザー、ミュートロンⅢ、ヤマハのアナログディレイ、エレクトロハーモニックスのマイクロシンセ(簡単に言うとちょっとシンセっぽい音がするオクターバーみたいなものです、ただ上のオクターブも出るので中々使い勝手がありました)。

勿論全てのエフェクターはパッチベイで、好きな順番に繋ぐ事が出来ます。
コーラス2つとディレイをステレオで同時に出すのに、かなり苦労して作ってもらいました。(簡易ミキサーを付けアウトさせる方法でした)
又、ボリュームペダルとワウをフットスイッチに繋げられるようにも工夫して作ってもらいました。

制作費はそこそこでした。しかしです問題がありました。
手持ちのエフェクター全てを2週間預けなくてはならず、こちらのスケジュールを調整するのが大変でした。
やむなく仕事の時には、友人達のエフェクターを借りて歩いたのを覚えています。

このエフェクトボックスのお陰で、どこの現場に行ってもセッティングや片付けが異常に楽になった上、好きな時に好きなエフェクトをかけられる上、完全なバイパスになるので生音は全く問題無しでした。本当に重宝しました。
ほとんど故障する事も無く、製作者の方には本当にいい仕事をしてもらったと思っています。
ただチョットした難点は、少々大きくなり過ぎた事です。しかし、その後に使っていた8Uのラックに比べれば全然問題は無かったです。

しかしそれも時代の流れに押し流され、意外にも短命で終わってしまいました。

デジタル関係の音を求められるようになり、出番は激減しました。

現役引退後は実家の倉庫に眠っていましたが、今はどうなっているのやら・・・多分もう捨てられてしまっているかもしれません。。。

余談ですが、何かの雑誌で松原さんがそのエフェクトボックスを引っ張り出して又使っていたようです。すごく懐かしくて嬉しくなりました。

私が見た一流ミュージシャンの凄さ!

私が確か21歳くらいの頃、スタジオギタリストで有名な松原正樹さんとひょんな事で面識を持って、今度スタジオでも見学に来なよ・・・と軽く言われたので、こちらも軽い気持ちで訪ねました。

スタジオの名前は忘れてしまいましたが、狸穴にある当時のラジオ関東の向かいにあるスタジオでした。
忘れもしないその時のメンバーは大御所ばかり・・・。
ギターが勿論松原さん(B・Cリッチのイーグルを使っていました、私のとは違うメイプルボディーでした)。キーボードとアレンジが松任谷さん。ベースが超憧れていた後藤次利さん。ドラムは当時の若手ナンバー1の渡嘉敷さん。
名前を聞いただけでも、当時の私は後ずさりしてしまうくらいの凄いメンバーでした。

レコーディングした曲って2曲だけでした。(普通の歌謡曲の曲でした。後日私がその曲をライブで演奏するとは夢にも思いませんでした)
なんたって凄かったのは、レコーディングのスピード!
いきなりアレンジャーの松任谷さんが一通り譜面の説明と各パートの指示と曲の雰囲気を口頭で軽く伝え、(みなさん聞いている雰囲気が全く無かったです)「じゃ、1回録ってみますか・・」との言葉で演奏が始まった訳です。

ミキシングルームで聴いていた私は、1回目のテイクで完全にノックアウトでした!
あまりの完璧さにビックリしました。
ミキサーの方が「今のでいいんじゃないですか~?取りあえず今のを残しておいてもう1回だけお願い出来ますか?」との言葉。
私の感想は、1回目のテイクで完璧だと思いました。
2度目の演奏は、確かに1度目より更に完璧だった事は言うまでもありません・・・。

2度目のテイクの2拍3連の2つめのベースが少しずれていたようで、そこだけパンチインして1曲終了しました。(恥ずかしながら、私はそのズレに気が付きませんでした)

なんと、レコードになるはずの曲を2回演奏しただけでOKが出るなんて信じられませんでした。
多分、私レベルがやったらテイク10やってもOKは出ていないでしょう。

もう1曲も同じスピードでレコーディングが終了しました。
2曲目のプレイバック中にはみなさんサッサと楽器の片付けに入っていました。100%OKの出る自信が無ければ、片付けには入れませんよね!!

実はその時に別の凄いエピソードがあります。
1曲目と2曲目の間に、休憩がありみなさんロビーでくつろいでいました。偶然ロビーにはギタリストの鈴木茂さんと吉川忠英さんがいて、みなさん談笑していました。
鈴木さんに至っては、疲れきっていたのかソファーで横になっていました。

・・・が、その時ロビーのテレビが野外コンサートの“ジョニー・ルイス&チャー”を映し出しました。
その時です、みなさんの談笑がピタッと止み、全員が画面に釘付けになっていました。
さっきまでの和やかムードとは一転して、みなさん真剣な表情で画面を見ていました。

最高レベルのミュージシャンの和やかな会話を止めさせる“チャー”の凄さに改めてびっくりしました。
放送後は又何事も無かったようにチャーについてはみなさん一言も口にはしませんでした。

この日の衝撃的な印象は今でも鮮明に記憶に残っています。

そんなこんなで松原さんにはピットインでやったパラシュートのライブにも「おいでよ!」と軽く言われ私も軽く行ってしまいました。

音楽をまた始めた理由とこれからについて。

小学生の頃からギターを手にして、音楽で生計を立てられるまでに至った私が29歳の時にキッパリとギターと音楽との縁を切った理由は色々とあります。

その話しは随分長くなってしまうので、又次の機会にでもおいおい書く事にします。

順番が逆になってしまいますが、音楽と無縁の生活を続けていた私は新しいCDを買う事もあまり無く、昔聴いて好きだった曲や昔弾く事の無かったジャズ系の曲をたまに聴くくらいで全くのリスナーでした。

そんな私が前の日記に書いたように、ギターを手にしてしまい人前でギターを弾くに至った経緯は色々とありました。
一番大きな理由は、50歳も見えて来た時にこのままギターを弾かずに年を取っていく自分にこのままでいいのか?と考えたからです。

何がこのままでいいのか・・・?と言うと、音楽抜きの生活はそれはそれで充実した生活ではありましたが、自分が人生の中でチョット大袈裟ではありますが、若い時にのめり込んだ音楽をもう一度やってもいいかもしれないと思える時期が来てしまったんです。

早い話が、若い時に憧れていた海外のミュージシャンの多くが他界してしまう事が多くなって来た頃から、私もいつかは弾きたくても弾けなくなってしまう時期が絶対に来るのだと思ったからです。

若い時と同じ感覚で、同じ音楽をやるつもりは始めからありませんでした。
今の自分が今の感覚で弾けるギターを演奏しようと思って始めたんです。

始めた時に自分で自分に決めた事があります。
やるからには真面目に取り組む事。
一度はライブをやる事。(これに関しては4月にライブをやるので自分の中での約束が果たせそうでホッとしています)
自分に限界が来る前にギターを辞める事。
この3つでした。

格好ばかりつけている様な文章ですが、これは今でも変わらない本心です。
自分の限界っていつ来るかなんてのは本人にしか分からない事ですが、今の私の考えではあと5年・・・が目安だと考えています。5年って長いようですが、そこでギター人生が終わってしまうと考えると凄く短く感じます。

その時期が来るまで何とかいいギターが弾けるように日々努力していくつもりです。

テレキャスターと私の付き合い

テレキャスターってフェンダーのテレキャスターは1本も持っていた事は無かったですが、いつも気になるギターではありました。
やっぱりベックが使っていたりした印象とか、スティーブ・クロッパーやコーネル・デュプリーなんかのソウルフルなギタリストが使っていたので、若い頃から気になるギターでした。

80年代の始め頃からシェクターを始めとしたコンポーネントギターが流行し始め、私が初めてシェクターのギターが気になったのはニューヨークのセッションギタリストのジョン・トロペイとデビット・スピノザでした。
特にスピノザのソロアルバム“スピノザ・ニューヨーク”ってアルバムのギターの音に完全にやられました!
彼が雑誌のインタビューでシェクターのギターをベタ褒めしていたのを覚えています。

私の先輩ギタリストが、そんな時期にシェクターのオールコアのテレキャスターを買ったので、少しだけ弾かせてもらいました。当時としてはとてもゴージャズな雰囲気のギターで、凄くボディーが重くてフェンダーのギターとは似ても似つかないリッチな音がしました。
ただ、値段がとてつもなくいい値段で、買うまでには至らなかったです。

そんなこんなでそれから1~2年後にシェクターからピート・タウンゼント(勿論WHOのギタリストの彼です)モデルってのが出たんですよね。
このギターは一発で気に入りました。すぐに手に入れた事は言うまでもありません。

Schecter PT

スタジオで有名になり初めの窪田君と知り合って、彼も同じギターを持っていてビックリしました。
彼の場合、メインギターはアリアの例のモデルですから勿論サブギターとしてですが。
最近になってそのモデルの復刻版がシェクターから出たみたいです。

バインディング付きの黒ボディーにメイプルネックに2ハム仕様で、パーツは全部黒でした。
メイプルネックのギターって私には相性が悪くて、少し悩みましたが当時付き合いのあったリペアマン(ギタリストを引退してリペアショップを開いた友人でした)に相談したところ、丁度アメリカからいいネックが30本くらい入荷してるから買ったら取り替えればいいよ・・と言われ、決断した次第です。

買って一週間も経たないうちに、ネックだけ交換するなんて馬鹿げたギターの買い方をすると思うでしょうが、アメリカから入荷したネック、とてつもなくいいネックばかりで今はやりのフラットな指盤にワイドなフレットにちょっと太めのグリップ、しかもバーズアイバリバリの凄いネックでした。ネックだけを20本以上の中から気にいったのを選んだんですよ。

シェクターに付いていたメイプルネックってちょっと薄い感じのグリップで、私の好みとは少し違っていました。したがってネックを替えて大正解でした。

ルックス的には黒いテレキャスター(なにしろピックアップまで黒でしたから)は意外に良かったです。

音的には立ち上がりのいい、それでいてギブソンにも近い太い音も出てタップさせればかなり使えるシングルの音も出ました。
アーム無しでしたので、アームが必要な時はフロイトローズ付きのストラトに頑張ってもらい、ジャージーな感じやリアマイクでディストーションかけたソロなんか弾く時には、かなり活躍してもらったギターです。
特にフロントのクリーンな音なんて、本当にレスポールや335に引けを取らないくらいギブソンっぽい音がしました。

当時ギターを買う時の基準って、まず生音の良さと(これだけは絶対に必要な条件でした)エフェクトをかけた時の音痩せが無い事です。

このテレキャスターは本当にネックから何から満足のい1本でした。
現役最後まで私の手元にありました。

今ではハイエンドギターと言われる、超高級なブランドのテレキャスターも数多くありますが、そういうメーカーが出て来る前の時代の一番のテレキャスターだったと今も思っています。

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Author:Les Paul L-5
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