私が使っていたエフェクター達の話-其の2

エフェクターと呼べるかどうかは分かりませんが、私がどんな時にも絶対に使っていたのが(83年くらいからです)“インターサウンド”のプリアンプでした。

インターサウンドのプリアンプを知ったのは、スタジオギタリストで有名な“今剛”さんが使っていたからです。
今さんの唯一のソロアルバム“スタジオキャット”のジャケット写真に写っている例のプリアンプです。今さんも常に使っていたようでした。ちなみにスタジオキャットって日本のフュージョン界では歴史的名盤だと未だに思っています。

ライブでギターを弾く際にもスタジオ録音の音を求められたり、ちょっとしたスタジオ録音でもライン録りが大流行していた時期で、私もライン用にプリアンプを色々と試していた時期でした。
当時はプリアンプって意外と少なくて、代表的なところで“アレンビック”のプリアンプなんかがありました。確か日本のメーカーからもいくつかのプリアンプが出ていたと思います。
TCのプリアンプも使ってはいましたが、どちらかと言うとイコライザーに近い雰囲気のエフェクターでしたのでライン録りすると、線が細すぎてチョット使い物にならなかったです。

そんな時代にインターサウンドのプリアンプをある楽器店で目にしました。
すでに売約済の品物でしたが、試奏させてもらい一発で気に入りました。当然予約を入れて手にしたのはその一ヵ月後くらいでした。
今さんが使っていたタイプは初期型で、パネルの文字盤が黄色のモデルでした。私が買ったのはモデルチェンジ後の文字盤が白のタイプでした。

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黄色モデルはすでに生産中止でした。黄色モデルはプレミアがついて取引されていたみたいです。スタジオで有名だった鳥山君も一時黄色モデルを使っていた・・・と思います。

私が使ってみての印象は、とにかく音が太くて抜けのいいサウンドだったと言う事です。
ライン録りをしても音痩せも無く、ジャズコーラスに通してもスタジオそのままの雰囲気の音が出ました。
一応クリーンとドライブの2チャンネル仕様になってはいましたが、ドライブチャンネルは全く使い物にならないヒドイ音でした!がクリーンは本当に使える音で私のラックには無くてはならないプリアンプとして活躍してくれました。

その頃はすでにディレイ関係もデジタル化していて、最高に使っていた時で3台のディレイを使っていた時期もありました。
プリアンプのあとにディレイを繋いで使っていましたが、インターサウンドはそんな時にもギター本来の音を失わず、更にインターサウンド独特の乾いたクリーントーンを出してくれていました。

当時流行っていた音って、高域がアンプだけでは出し切れない部分の音を強調した音でした。そういった場合15~20KHくらいの音をいじれるプリアンプが本当に必要でした。
シャリシャリの音って訳ではなく、張りのある高域が求められていました。
特にプリアンプ無しで、ショートディレイなんか掛けると中域ばかりが強調されてしまい、バランス的にイマイチでした。

インターサウンドのプリアンプには最後の最後までお世話になりました。このプリアンプ無しには私のサウンドは出せませんでした。

現役を辞める時にほとんどの楽器を処分しましたが、買った時の値段より遥かに高い値で売れたのは実はインターサウンドのプリアンプだけでした。

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過去のライブ体験・マンハッタントランスファー編

マンハッタントランスファーのライブを見たのは、1980年だったと思います。私が20歳の時です。
会場は中野サンプラザでした。

長いバンド名なので、マントラ・・・で省略させてもらいます。実際にマントラって呼んでいるミュージシャン達もいた事ですし。

ライブの話しの前に何故マントラかと言うと、やはりジェイ・グレイドンの影響なんですよ。
78~79年にかけてバッキングの世界でもアメリカ、特にロスのスタジオミュージシャン達の影響って大きくて、ラリー・カールトンあたりはスタジオもあまりやらなくなって来た時期で、日本でも、「このギターは凄い!」って言われるギタリストが数多く現れて来た時期でした。
カルロスリオス、リッチージトー、ディーンパークス、ジェフミノロフ、勿論ルカサーやランドー達でした。

その中でも当時群を抜いていたのは、ジェイ・グレイドンでした。彼の名前がクレジットにあるレコードは買い漁りました。そんな時一番話題になったのは、“マントラ”“マークジョーダン”“スティーブキプナー”あたりのレコードで、輸入盤で発売する前から評判が良かったので渋谷のシスコに行って予約(輸入盤)して手に入れました。(タワーレコードでは入荷が未定だった事とシスコの店員さんもその系統好きだったんで話しが弾んだんですよね)

ジェイ・グレイドンのギターははっきり言って、今までに無い斬新なフレーズと音の良さもチョット別格でした。コピーして、彼ほどコピーしづらいフレーズを弾く人も中々いませんでした。
歌伴であれ程のインパクトのある彼のギターソロをコピーした事は私にとって大変為になりました。

ジェイ・グレイドンから入ってマントラのレコードを聴くようになりましたが、マントラは私の大好きなバンドになってしまいました。
なんと言ってもグレイドンプロデュース(半分はエアプレイでの相方のデビット・フォスターもプロデュースしていた様です)の“エクステンションズ”は今でも私の好きなアルバムのベスト30には確実に入ります。
グレイドンのギターも素晴らしいですが、サックスプレーヤーのリッチーコールの名演も見逃せません。リズム隊も当時のトトのドラム・ベースがサポートしていて、本当に素晴らしいサウンドでした。その次のアルバムも本当に素晴らしい出来でした。

そんな彼らの初の(多分ですが)日本ツアーがエクステンションズ発売後の1980年にあったんです。
当時は有名なコンサートのチケットって職業柄、裏から手を回して手に入れてました。
そのコンサートって、私がサポートしていた有名な歌手が引退してしまいその時のバックメンバーほとんど全員と見に行ったんですよ。マネージャーさんに頑張ってもらって全員分の並びチケットを取ってもらいました。
会場もミュージシャンだらけでした。サンプラの中2階の喫茶店なんてあちこちのミュージシャン達がお茶をしていて、若手だった私はコンサート前に緊張していました。

ところがです!ライブたるや私が想像していたボーカルグループのライブを遥かに超える凄いライブでした。ステージパフォーマンス、コーラスが完璧なのは当たり前ですが、サポートしていたミュージシャン達の腕前、ハンパではありませんでした。4リズムにテナー1本の編成であそこまでの音を出されると脱帽物です。知ってる名前はベースのアレックスブレイク(渡辺香津美のロンサムキャットに参加したので知っていました)くらいでしたが、バンドのアンサンブルや歌伴におけるバンドとしての演奏や歌を引き立たせるバンドアレンジなど本当に勉強になる事ばかりでした。ハッキリ言ってあの時の演奏を聴いて私は落ち込みました。
今までの自分の想像していた、ステージで歌をサポートする・・・という事がどれほど凄い力量が必要かだと分かったのです。

ロスの知名度の低いミュージシャンですらあれだけ凄い演奏が出来ると言う事を目の当たりにして、日本で仮にもお金を貰ってギターを弾いているという事が恥ずかしくて仕方がありませんでした。

コンサート後、落ち込んでいたのは私だけではありませんでした。
一緒に行ったバンドメンバーほぼ全員が落ち込んで帰った覚えがあります。特にコーラスの方達の落ち込みと感激は凄かったです。

あの時のサンプラザでのライブは記憶の彼方ですが、のちに彼らが出したその後の日本公演のDVDを見る度に、あの時の感動と落ち込みが蘇って来ます。

過去のライブ体験・プリズム編

楽器の話しやら業界の話しとは別に、私が今までに見て来たライブについても感想を書いておかなければ、と思い少しづつ記憶を辿って書いて行こうと思います。

第1弾はプリズム編・・・と言う事で。

プリズムのライブを見たのは、後にも先にも1回だけ。
そのライブもプリズムがレコードデビューする前でした。1977年だったと思います。
私も高校2年生でした。
丁度時期的には、ベックの“ワイアード”が出た後だったと思います。
何故か・・・と言うと1ステージ目と2ステージ目の休憩時間に和田アキラ氏が一生懸命ワイアードの中の曲を練習していたからです。(完コピと言うかレコードと全く同じに弾いていて驚きました・・・)

何故プリズムを知ったかと言うと、私の通っていた高校は付属高校で大学の敷地内にありました。そんな訳で私も高校時代から大学生に混じって演奏をしていたんです。
その中でも飛び抜けて上手かった大学生バンドがありました。のちにレコードデビューする事になる“スペースサーカス”でした。(当時はマハビッシュヌオーケストラの曲なんかやってました)
そんな先輩達にプリズムってバンドが今東京では一番上手んだよ・・・と言われ、見ておいた方がいいよって言われたんですよね。

そんなこんなでなんとか渋谷の屋根裏でプリズムのライブが行われると調べて、一人でライブに出掛けた次第です(今に時代と違ってネットもないし結構大変でした、“ピア”なんかも未だ出ていなかったと思います)
高校生の私にとっては屋根裏って雑居ビルの3階にあって、2階がピンクサロンだったもんでとても入りにくかった覚えがあります。屋根裏はその後何度も通っては色々な旬のバンドの演奏を目の当たりにした場所でした。
ライブの無い日の夜なんかに行くと、思いがけないミュージシャンが酒飲んだりしてました。

雑談はさておいて、プリズムのライブ・・・ハッキリ言ってぶっ飛びました。
狭いライブハウスであれ程の興奮を覚えたのは、あの時だけだったと思います。
レコードデビューする前だったので、デビュー後のドラマーとは違う人が叩いていましたが、まずはドラム完璧!しかも私の知る限りドラムがステージ正面の一番前で叩いているのを見たのはプリズムだけでした。(音的には確かにドラムが一番前ってのは理にかなっていると思います。)

ギタリストの私として、とにかく驚いたのは和田アキラ氏の早弾きにつきます。
カウンターの一番前で目を凝らして見ていても、指が残像くらいにしか見えませんでした。
今見れば、又違う感想を持つとは思いますが、なんといっても17歳の多感な時なので感激するしかありませんでした。

バンドのアンサンブルも、当時の私のレベルでは最高に感じました。エレピがあれだけの腕前の人は私は知りませんでした。今では久保田早紀さんの旦那の久米大作さんでした。
選曲が良かったのも記憶しています。
サンタナの“ウェルカム”の中のユーイズザライトを完コピに近い形で演奏した上、当時大好きだった四人囃子のレディーバイオレッタをやってくれた事です。
レディーバイオレッタを演った時だけでしたがゲストギタリストとして、今は亡きルージュにいた故逆井オサムさんが登場していました。
レディーバイオレッタは中学生の時にコピー済みだったので、事の他聞き惚れてしまいました。

デビュー前のプリズムを生で見れた事は、本当に貴重なライブ体験でした。
その先の私のバンド感や音楽的方向など、色々と勉強になる事ばかりでした。

ちなみに和田アキラ氏は、当時のトレードマークの黒のレスポールカスタムとグレコのレスポールサンバーストを2本使っていました。
アンプは、ミュージックマン212を2台使っていました。(多分ローランドのCE-1を使っていたのでステレオにしていたと思います)

遠い記憶ですが、鮮明に覚えている素晴らしい演奏でした。

私が使っていたエフェクター達の話-其の1

エフェクターはコンパクト物からラック物まで星の数程使った経験があります。

私がギターを始めた頃は、コンパクト物のエフェクターすら世に出始めた頃で、中学生の頃に続々と日本のメーカーもコンパクトエフェクターを作り始めていた時代でした。

中学生の時にエレキギターを弾き始め、やっぱり一番の問題点は“歪み”でした。
ツェッペリンやパープルやベックの曲を弾くには、やはり歪んでない音では雰囲気が全く出ませんでしたので、歪み系のエフェクターを当然買う事になりました。

最初に買ったエフェクターは間違いなく“Big Muff”でした。簡単に言うとファズです。
とにかくギンギンに歪んで、ギター本来の音なんて関係無くビービー、ビービー歪んでました。自宅で練習していたので、小音量でしたのでとにかくセミがアンプの中で鳴いている様な感じでしたが、気分的にはマーシャルで歪ませた音(マーシャルの音なんて知る訳も無かったはずですが・・・)と同じくらいの気分で悦に入ってました。

中学卒業前にもう一つ歪み系のエフェクターを手に入れました。
多分ですが、出来たばかりのマクソンのオーバードライブです。チョット大き目の箱で、色はモスグリーンでした。“Big Muff”とは明らかに違う音でした。今で言うオーバードライブのはしりだったはずです。音量を上げた時の歪み具合が、子供の私にもいい感じだった事は鮮明に記憶しています。高校に入って暫くはこのエフェクターひとつで学際荒しに出掛けたものでした。
(この学際荒しが将来のプロデビューに繋がって行くなんて夢にも思っていませんでした・・)

高校に入る前くらいから、色々な雑誌の有名なギタリストの足元に小型の赤や黄色やオレンジ色の見た事の無いエフェクターが並んでいるのをチラホラ見かけるようになりました。
いい例が、クルセイダースの頃のカールトンや高中やらの写真でした。赤い箱がやたらと気になり、楽器屋に通っているうちにナゾが解けました。
MXRと言うアメリカのメーカーのエフェクターでした。
当時は随分といい値段がしていました。赤い箱のダイナコンプでも3万くらいしたと思います。

前の日記に書いたように、渋谷のヤマハで335を手に入れる際に一緒にエフェクターも手に入れたんですよ。その時のエフェクターが全てMXRで、ダイナコンプとフェイズ90とディストーション+でした。(親に泣いて頼んでローンを組んでもらいました)

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MXRのエフェクターって当時は最先端の音で、ノイズの少なさやらエフェクトのかかりの上品さ、ギターの音抜けの良さなんてのはメチャメチャ良くてビックリしました。

この3種類のエフェクターはその後何年かは私と共に一緒に活躍してくれました。(3種類共超初期型のモデルだったので今ではプレミアがついているみたいです。)

79年くらいに当時は高嶺の花だったディレイを手に入れました。(マクソンが始めて出したラック式のアナログディレイADナントカと言うモデルで6~7万くらいだったと思います)
当時はディレイと言えばまだまだテープエコー(エコープレックスやローランドのスペースエコー)が主流でした。値段もかなりの物で、テープの交換も大変らしいのでとても手が出ないシロモノでした。

結局エフェクター3個にマクソンのディレイで随分仕事をしました。

その後数年で世の中のエフェクター事情も、アナログからデジタルに変わってしまいます。
80年代になるとギターの世界も空間系の音が主流になり、バッキング業界でも広がりのある音を求められ、エフェクターはじめギターやアンプに至るまで総取替えとなって行きます。

その時の話は次の日記で・・・。

B・C・Richと私の付き合い

前の日記でストラトが私の元から1年足らずで去って行ったと書きましたが、一番大きな理由はストラトにあった訳ではなく、ストラトを買った直ぐ後に(3ヵ月後くらいだった)B・C・Richを手に入れた事が一番の理由でした。

Richを始めて見たのは、これも又テレビの歌番組で西城秀樹のバックを吉野藤丸さんがやっていて、藤丸さんが弾いていたのがRichでした。確かその時のドラムは山木秀夫さんだったと記憶しています。

Richはスタジオミュージシャンの草分け的存在だった水谷公生さんが、かぐや姫のバックで弾いていたのを写真で見て知ってはいました。しかし現実に見たのは、藤丸さんのギターでした。

なんとも言えない強烈な印象でした。
ギブソンやフェンダーには無い新しい楽器、って感じが凄くしました。

当時Richを置いてある店はほとんど無く、置いてあったのは代理店だった湯島にある“ミュージックストア”でした(今はもう無いお店かもしれないですね)。一度訪れて弾かせてもらいました。
なんとも言えないいい感じで、本当に欲しい!と思ったもんです。
しかしです、定価が当時の値段で40万近くしたと思います。若かった私にはあきらめるしかない値段でした。

ところが、知人から六本木の“アン”で並行物が売ってるよ・・・と教えてもらいました。
“アン”って今ではミュージックスクールで有名ですが、当時はスクールとは別に並行輸入の楽器なんかも売ってたんですよ。あまり知っている人はいなかったと思います・・・。
あと意外と知られていなかったのは、河田町にフジテレビがあった頃フジテレビの隣にフジテレビ関係の楽器のリースで有名だった“サン楽器”なんてのもプロしか来ないけれど、凄くいい楽器が揃ってました。
今では考えられない値段で、58年のレスポールとか59年の335とかビンテージ物のいいやつなんかを置いてあったんですよね。
その59年の335って大村憲司さんが買ったという噂でした。

話しは脱線しましたが、“アン”で売っていたRichは並行物だった事もあり意外に安い値段で売りに出ていました。
置いてあったのも、欲しかったイーグルのコアボディーだったので2、3日悩んで買う事にしました。こちらがそれです。

BC Rich_Eagle


新しい時代の新しい楽器って事が本当の第一印象でした。
弾き易さも格別だし、出る音も何故かアメリカンな音が出ました。
やたらと色々なスィッチが付いていていろんな音が出るようになっていましたが、使える音ってそんなに多くはなくて3~4種類くらいでした。
しかしその3~4種類がやたらといい音だったんですよ。
その頃使っていたミュージックマンのアンプとはそこそこの相性でしたが、Richを手に入れて1年後くらいに買ったブギーのアンプとは抜群の相性でした。

結局何年間かは常に持ち歩くギターになっていました。
このギターでかなりの数のオーディションを受けたものです。一番印象的だったオーディションは沢田研二さんのバンドのオーディションで、審査員の井上暁之さんに「チョット弾かせて」って言われた事です。そのオーディションでの一番の収穫は、日本のボンゾと言われる鈴木二郎さんと一緒に演奏出来た事です。若かった私にとってはとてもいい経験でした。3曲くらい一緒にやらせてもらいました。最後に井上さんから「Gのブルースをやって」と言われ、20才の私は緊張して知っているブルースのフレーズを弾いた記憶があります。
結局、最終審査には残りましたが、年齢が若すぎる・・・との事で落ちました・・・。
そのオーディションで受かったメンバーが、のちのエキゾチックスになっていったんです。

そんなこんなで、いつの間にか335の出番が無くなってしまったくらいです。
手放して後悔しているギターの中の5本の指には間違いなく入ります。

ジャズコーラスと私の付き合い

誰もが知っているローランドのジャズコーラス。今では定番中の定番のギターアンプとして知られています。
私がプロになった頃は、トランジスターのアンプって抵抗がありました。
持っていたのも当時は小型のミュージックマン210ってモデルでした。ミュージックマンは本当にコンパクトなボディーなのに、素直な音で何年か私と一緒に行動していました。

そんな時にテレビの歌番組で、別のスタジオでCharだけが別撮していて、リハの時に覗かせてもらいました。

使っていたギターは勿論ムスタングでアンプがジャズコーラス160でした。足元のエフェクトはマクソンのディストーション1個のみ。
メチャメチャいい音していた・・と言うのが20歳そこそこでの私の感想。

Charは私が中学生の頃からクチコミで色々と評判は聞いていました。
デビューアルバムの中の“スモーキー”なんか聴いてぶっ飛んでいたくちです。

それがジャズコーラスを生で聴いた初の演奏でした。「あのアンプ一度弾いてみたいな~」なんて思った次第でした。

それが歌謡曲をやっていた頃で、歌謡曲関係の仕事やCMや劇伴の録音やらは基本的に自分のアンプを持って行くのが当たり前の世界でした。

その後、ニューミュージック系の仕事をするようになりその系統の人達が使うリハーサルスタジオって意外とジャスコーラスを置いてある事が多くて、自分のアンプを持ち込む必要がなかったんですよね。

勿論ライブも楽器は希望すれば、好きなアンプをレンタル出来るのでほとんどの場合ジャズコーラスを2台(ステレオセッティングにしていたので)頼んでいました。
ほぼ日本全国、どこでやってもステージに行けば、アンプが2台用意されていました。

いつもレンタルしていたのは、定番のJC-120でした。ステージって意外とガラ~ンとしたところにポツンとギターアンプが置かれた状況なので、音がぼやけてしまいます。その点があまり気にならないのがジャズコーラスでした。使い勝手は非常に良かったです。取り敢えずフラットなクリーンが出るのでその点が一番のいい所でした。
一度だけJBLのスピーカーの付いたジャズコーラスが来た事があって、音がシャリシャリになって困った事がありました。

いつの間にか自分のアンプを持たない時期も出来てしまい、これはまずい!と考え何かアンプを買わなくては、と思い手頃なアンプを物色していたところ、高橋幸宏さんのライブで友人がドラムを叩く事になりリハを見学させてもらいました。なんとベースは帰国して本格的に日本で活動し始めた小原礼さん、ギターはなんとなんと!!憧れの故大村憲司さんでした。
そこで大村さんが使っていたのが、出たばかりのJC-77でした。ストラト(新品のクラプトンモデル色違いで2本使ってました)を鳴らしてメチャメチャいい音してました。同じスタジオ内にいて鳥肌が立ったもんです。
そのバンドのライブもお邪魔して、なんとステージサイドで最初から最後まで大村さんの横で見させて頂きました。

そこで私のアンプは決まりました!もちろんJC-77です。

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リハを見学後、翌日には楽器屋に飛んで行き、2台注文したのは言うまでもありません。
このアンプ、今はもう生産していないみたいですが、私みたいなステレオでステージをやるようなタイプには非常に使い勝手がいいアンプでした。

ステレオにするとどうしてもスピーカーの数が増えるので、低音がブーミーになりがちですがスピーカー自体が10インチと小さいので、非常にバランスがいい音が出ました。
このアンプだけは現役を辞める時まで所有して活躍していました。

やはりライブではレンタルをしていましたが、リハーサルなどでツインしか置いてないスタジオなんかでは随分自分のアンプで弾いたもんです。

以上が私とジャズコーラスの付き合いです。
大好きな“パット・マルティーノ”もジャズコーラスを使っている映像を何度も見ているので、思わず嬉しくなってしまいます。

フェンダーと私の付き合い

外国製のギターを最初に欲しかったのは実はフェンダーのストラトだったのにギブソンを買ってしまった、と前の日記に書きました。

そこが縁の切れ目だったのか、これだけ数々のギターを所有していた過去のある私が、フェンダーと名の付くギターを持っていたのは1本だけです。

私がプロになったのが79年はじめでした。その時点で所有していたギターがレスポールと335でした。
その頃やはり流行の音は、335にコンプレッサーをバリバリに掛けるか、ストラトにコンプレッサーをバリバリに掛けるかの2通りでした。ストラトのハーフトーンにコンプ掛けてカッティングするなんてのが大流行していました。
音源的に言えば、高中のセイシェルの音とかドナ・サマーのホットスタッフのギターソロ(ジェフ・バクスターが弾いていました)なんかがいい例でした。

プロとしてお金も入って来るようになり、やっぱり使い道は楽器でした。
そこで考えたのがフェンダーのストラトでした。

当時は行き付けのお店は渋谷の“パコ”でした。知る人ぞ知るプロご用達のお店でした。
ここの店員さんだった福田さん(店員さんとは言え彼は現役のギタリストで大変お世話になった覚えがあります。当時は彼がギター、弟さんがベースでさだまさしのバックをやっていました。不幸にも数年後に交通事故でお亡くなりになってしまいました。今でもさださんのライブでは弟さんが頑張っているようです。)に薦められてストラトを買う事を決断した次第です。
色はサンバースト、当然ラージヘッド、黒ピックガード、指板はローズ、トレモロ付の一番オーソドックスなストラトでした。
パコで買った時点でハーフトーンが出易いように5点スイッチを付けてもらいました。
この色でしたね。

ストラト・ラージ

ギブソン系のギターしか知らなかった私にとっては、やたらと新鮮な音に感じました。
ただ残念な事に、当時のフェンダーは大量生産の真っ只中で作りは全く悪かったです。

多分、一番良くない時期のストラトを買ってしまったんだと思いますが、しかし仕事では充分に使用に耐えるレベルにはありました。
結構335とストラトと2本持ち歩いて曲によってや、やる音楽によって使い分けていました。

ストラトって慣れちゃうと結構弾き易いんでビックリしました。
又、ストラトの音って慣れちゃうと、結構心地よいんですよね。

しかし残念な事に、このギターは短命で私の元から去って行きました。
その理由は又別の機会にでも・・・。

最初に書いた通り、フェンダーのギターはこ1本だけでした。
その後に所有していた、テレキャスター、ストラトは全てフェンダー以外の80年代に流行したコンポーネントギターと言われる物でした。

こんだけ長い間ギターを弾いていて、フェンダーのギターを持っていたのは1年間くらいというのも私だけではないでしょうか?

今後もフェンダーのギターを買う予定はたとえビンテージ物でも無いと思います。

渋谷のヤマハとES-335

私が育ったのは三軒茶屋。今では地下鉄で渋谷まで2駅(地下鉄が出来る前はバスで行きました)。
中学生の頃渋谷にはよく行きました。行く目的はただひとつ!楽器屋さん廻り。

一番良く通ったのは渋谷のヤマハでした。
道玄坂を登って左手のインテリアの井門を越えたところにある楽器屋さんでした。

中学生には高嶺の花のフェンダーやギブソンがショーケースの中に鎮座していて、外から眺めては「いつかは欲しいな~」なんて呟いていました。

ヤマハに行くもうひとつの目的は、日曜日なんかに1階のちょっとしたスペースでライブがあったんですよ。私が鮮明に記憶しているのは、柳ジョージが超ロングヘアーにロンドンブーツでグレコのフライングVでガンガンロックしていたのを目の当たりにした事です。
その時のキーボードは、なんと当時拓郎のバックなんかやっていた“柳田ヒロ”でした。
その他では、後のサディスティック・ミカ・バンドのキーボードの今井裕さんのセッションやらやってました。
中学生にはとてつもない演奏だったと感動したのを覚えています。

当時出始めのクロスオーバー系のバンドなんかも出ていました。
クルセイダースをやっていたバンドが非常に印象的で、何故かというとギターがサウスポーの方でした。

話しがそれましたが、てな事で渋谷のヤマハには本当によく通いました。

それでヤマハに通っているうちに、目についたのがまだ流行前の335でした。
色はブラウンでタップスィッチ付のでした。後にラリー・カールトンが五輪真弓のバックで来た時に使っていたのと全く同じタイプでした。これと同じモデルでしたね。

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本当は何故335が欲しかったかというと、雑誌でジョニー・ウィンターがドクター・ジョンとセッションしている写真で、なんとジョニー・ウィンターがブラウンの335を使っていたからです。(多分借り物だったはずですが、当時の私にはそんな事考えもつきませんでした)

ですので、レスポールは持っていたのですが335がどうしても欲しくなり、プロデビュー直前に両親に泣いて頼んで手に入れました。

335を買ってからビックリしました。なんと世の中では335が大ブームになって来たんです。
確かにカールトンが使っていたのは前から知っていましたが、335ブームの火付け役はリトナーの影響の方が大きかったと思います。

そんなこんなでブームに先駆けて335を手に入れた私は、プロデビュー直後からこの335にはホントにホントにお世話になりました。
最後の方は使い過ぎて、傷やら色々ありましたがどうしても欲しい、というジャズギタリストの東海林君(今もバリバリでやってます、秋山一将さんの一番のお弟子さんでした)に受け継がれていきました。

ちなみに東海林君も湘南グループではトップクラスのジャズギタリストでした。
彼に出会って私もジャズを勉強しようと、先生についたんですよね。

とりとめの無い話でしたが、私の渋谷ヤマハ体験・・・という事で。

追記・・・最近渋谷のヤマハが閉店した事をしりました。大掛かりな閉店イベントが開催されるほど、多数に支持されていたからこそだと思います。

初見とリハーサル

初見・・・音楽業界では渡された譜面をその場で「ハイどうぞ」と言って演奏する事を意味します。私は幸か不幸か譜面には何故か強い方で(小さい頃にクラシックの教育を受けたなんて事は全然ありませんでした)、歌伴程度の譜面なら苦労無く読む事が出来ました。

初見の場合本当に現場では、譜面を一通り見る時間すら無い事が多いので、今弾いている場所の3~4小節先を見ながら演奏するというとんでもない作業になってしまいます。

放送の仕事や当時出たばかりのカラオケ作りのスタジオなどでは、現場に行くと譜面台に20~30曲分の譜面が積んであり、ウンザリしたのを覚えています。

カラオケ作りは本当に時間との戦いで、間違えは一切許されず1曲仕上げるのに5分程度で進んで行ったのを覚えています。お金にはなりましたが、そんなスピードで1日10時間以上スタジオにこもってギターを弾く事って結構辛かったです。(カラオケのレコーディングなんかはギターだけをダビングする時はスタジオ内に1人ぼっちって事も何度かありました、ミキシングルームには何人かで聞き耳を立てられているので20歳そこそこの私にはかなりのプレッシャーでした。)

歌謡曲系の方のライブってたとえコンサートでも、リハなんてやらない方も当時は結構いました。現地に向かう新幹線の中でマネージャーさんから20曲近い譜面を渡され、「今日はこれヨロシク」なんて軽く言われた事もありました。

どんな状況でもミスは許されない(次からの仕事に影響が多々ある・・・)ので、結構頑張ったものです。

そんな私もニューミュージック系の方のバックでギターを弾くようになって驚いたのは、リハーサルをかなりしっかりやる、という事。譜面でどうのこうのという演奏より、バンド全体としていい音を出す・・という事が前提になっているので少々譜面が弱くてもいい演奏をするミュージシャンが集まっていました。(それでも最低限の譜面読解力はありました)

一番驚いたのは、リハ前に音源と譜面を渡される・・という事とリハーサルの回数がやたらと多い事でした。3~5ヶ所程度の小規模ツアーでも最低3回くらいリハをやって音を固めていました。ゲネプロなんてのもこの時期(80年代前半)に始まったと思います。

リハの現場はやはり今でも一番の楽しい思い出です。
初日のリハでは初対面の方もいたりしましたが、回を重ねるとやはりミュージシャン同士打ち解けていったもんです。
ツアー終わりなんてかなり仲良くなってました。

リハの現場って結構ミュージシャン側って我儘なもんで、珈琲やら飲み物やら休憩やら結構言いたい事言ってました。

ただミュージシャンとしての力量がさらけ出されるのはリハの現場でした。
初リハなんて関係者だらけで、自己紹介(舞台監督から音響の人から照明の人やら事務所関係の人やら色々)から始まったりと結構緊張するもんです。
そこでいいギターを弾かないと、周りに認めてもらえないプレッシャーのかかる状況でした。
1回目のリハで全然ダメだった人が2回目以降別のミュージシャンに替えられたなんて事も何度か見た事があります。

初見の話しに戻りますが、ジャズギターを習いに有名な先生についた時に先生に言われた言葉が今でも印象に残っています。「あなたなんでも譜面で弾いちゃうね~」と言われた事。
ジャズ系の方は一般的に譜面には弱い方が多かったと思います。
そんな中から出た言葉だと当時の若かった私は思っていました。

年を重ねた私が今思えば、譜面を読んで弾けるギターより自分の思った事や感情を表現するギターを弾きなさい、と言われていたんだと思います。

確かに今はジャズを弾いていますが、その気持が大事なんだとつくづく感じています。

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