ミュージシャン時代の話し 演歌編

私がプロで最初にツアーに出た仕事は演歌の仕事でした。18才の後半の頃です。
当時はツアーなんて言葉はなくて演歌系の仕事は”ビータ”と呼ばれていました・・・旅を反対語で言っていたのです。

私は全然駆け出しのしかも高校生ですから、仕事を選ぶなんて出来ませんでした。依頼があれば何でもするしかない状況でしたからね。演歌だろうがなんだろうが仕事があれば嬉しかったですし・・・。
何しろギターを弾いてお金が貰えるんですから、こんな幸せはありませんでした。ですから来た仕事には不満なんて全然無くて、一生懸命頑張りました。

地方に行くのも初めてでしたので、その演歌ツアーの仕事は今でもハッキリと記憶しています。
演奏させて頂いた歌手の方たちは既にピークを過ぎた方たちでしたが、その世界では先生と呼ばれる位の歌手の方々でした。
灰田勝彦さん菅原つづ子さん伊藤久男さんと他にはこまどり姉妹さんでした。私の両親ですら懐メロとして聴いていた方々でした。当然ですが18才の私が知っている訳は無かったですし、大変失礼な事にお歌の方は何一つ聴いた事もありませんでした。

バンドは東京で当時は有名なビックバンドでしたが、ギターの方が居ない編成だったので私が参加する事になった訳です。
あるギタリストさんからの紹介で仕事を頂きました。高校の方は担任に事情を話して休ませてもらいました。付属高校だったので既に進学も決まっていたのでOKが出ましたね。ツアーの期間は10日間でした。
九州を廻るツアーで1日2ステージでした。勿論リハ無しです。全て初見での演奏でしたが何とか頑張りました。

初めてのツアーが演歌でしたが、楽しかったですし勉強にもなりましたね。最初はビックバンドの方には”何だこの小僧は”みたいに思われていました。当たり前ですよね、駆け出しの高校生ギタリストですから・・・。
その前にも演歌の仕事は単発で少しはしていたので、演歌の弾き方は少しは分かっていましたから慣れるに従って自分でも分かるくらい日々上達して行きました。
最初は隣で弾いているベースの方は完全に私の事は無視に近い状態でしたが、3日目位からお話をしてくれる様になりました。色々とアドバイスなんかも頂きましたし、この先の事とかも移動中に相談に乗ってくれましたね。そのツアーの後でもお電話で色々と相談させて頂きました。とてもありがたかった事だと思います。

今でも覚えているのは伊藤久男さんの歌う姿です・・・直立不動で歌う姿は凛としていて流石は往年の大スターだと思いましたし、貫禄も充分感じられました。
その伊藤久男さんから”君は若いのにしっかりしたギターを弾きますね”と言われた事は、ほんとに嬉しかったです。

やはり演歌と言えどもギターの出番は結構あります。短いですがソロもあるし歌中のオブリガードも全て譜面通りに弾かなくてはなりません。一番苦労したのが菅原つづ子さんの曲でした。途中でバンドがブレイクで休止したあと、少しの間を置いてかなり厳しいギター一人のカデンツァがありました。フリーテンポのカデンツァでしたが、そんなのは弾いた経験がありませんでした。
その後に歌がまたスタートするので何があってもミスは許されないカデンツァでした・・・譜面を見た時になんじゃこりゃ~と思う位のフレーズでした。
運良く最後の日まで何とかミス無く弾き切れました・・・ベースの方が最後の日に”よく弾いたねあれ・・・他のギターだったら1回位はミスってるよ”と言って頂いて涙が出るくらい嬉しかったです。

何が何だか分からないけれど何とか最後まで努められた事は、その後の私には自信になりました。ビックバンドの方たちも後半には優しく接してくれましたし、色々と教えてくれた事も沢山ありました。
あとは移動の最中のビックバンドの方たちの旅慣れた雰囲気も、私にはこれがプロの世界なんだなと感じさせてくれました。

その後の演歌の仕事にも少しは自信が持てる様になった、私の思い出深い仕事でした。
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ミュージシャン時代のスケジュール管理

今の時代のミュージシャン達はどんなスケジュール管理をしているのか、古い時代の私には全く分かりません。
今回は私が70年代から80年代終わりまで、どんな感じで自分のスケジュールを管理していたのか書くこ事にします。私の知り合いのミュージシャン達も殆ど似た感じでスケジュールを管理をしていたので、参考になるかと思います。

まずお断りしておきますが、私は決してスタジオミュージシャンではありませんでした・・・確かにスタジオでのレコーディングは数々こなしていましたが、基本はライブや放送関係の仕事が90%でした。
売れているスタジオミュージシャンの方はとてつもないスケジュールをこなしていたので、とても自分では管理が出来ません。ですから殆どが音楽事務所に籍を置いて、事務所が全てのスケジュールを管理していました。
松原正樹さんなんかは、スタジオで1日5本とか6本の仕事をこなしていたので、とてもではありませんがご自身での管理が不可能なのは当然ですよね。

では・・・私レベルの二流ミュージシャンはどんな感じだったのか書く事にします。
私がプロになった頃は携帯はおろか、留守番電話もない時代でした。自宅の固定電話が大切なアイテムでした。。。
子機もない時代の電話なので、電話が鳴ると何時だろうと常に速攻で取っていました。

演奏の依頼は殆どが電話でした。電話の横にはカレンダーは絶対に置いておかなくてはなりませんでした。後はメモ帳とペンです。今の時代では考えられない事ですが、仕事を確保するのですからその程度の準備はしていました。

では電話の相手は誰か?・・・私の場合は当時ミュージシャン専門にタレントさんや番組関係の仕事を確保する、通称インペク屋さんでした。今で云うところの人材派遣会社の様な感じです。
私が懇意にさせてお世話になったインペク屋さんは4社くらいでしたね。単発の仕事もあればオーデションの紹介があったり、オーデションなしでツアーの仕事などを紹介をして頂きました。
インペク屋さんは私の経歴や今迄の実績を知ってくれているので、私が出来ると思われる仕事を理解していてくれているので、助かりました。

他にはやはりミュージシャンの方からの電話です。ギターの方もいれば、他の楽器の方からも随分仕事の依頼がありました。アレンジャーさんからも少ないですがありました。アレンジャーさんの場合はCMの録音や劇伴の録音がほとんどでした。

インペク屋さん・ミュージシャンの方に関わらずまず聞かれるのは、何月何日は空いてますか・・・から始まります。
カレンダーをみて答えるのですが、駆け出しの時期はほとんどが空いていましたが、多少仕事が増えるようになってからはお断りするすることもありました。
体は一つなので、中々掛け持ちは厳しかったですから・・・。

スケージュールが空いていれば、次は誰の(歌手の方)仕事なのか、入り時間と音出し時間の説明があります。当然ライブなら何処に行くのかとか、何本のツアーなのかです。
単発なんかのライブも結構ありました。前乗りなのかとか、泊まりなのかとかです。後は飛行機の時間とか新幹線の時間です。

リハとか録音の仕事の場合はスタジオの名前を教えてくれます。
ギャラの話はその後になります。次にアコギを持ってきて欲しいとか楽器の事です。編成なんかもその時に説明を受けます。
私の場合殆どが初見の仕事が多かったですね・・・初見が効くと思われていたのかもしれませんが仕事ですから仕方がありませんでした。
ギャラに関しては自分で請求書を書かなくてはならないので、請求書は常に2冊位は持っていました。ギャラは振込もあれば、取っ払いと言って演奏後直ぐに支払われる事もありました・・・。

スケジュールも大体1月くらい前の確認が多かったですね。後は結構あったのが、前日の夜に明日空いてますかなんて電話は意外と多かったですね。勿論空いていれば断る理由はないし、私レベルが断れば次からは仕事は来なくなりますからね。
あとキツかったのは、当日の午前中に連絡がきて午後から空いてますか・・・なんてのもありました。午前中は殆ど寝ていましたから辛かったですね。その場合は殆どがスタジオの仕事でしたね。

一回だけあるギタリストが盲腸で深夜に病院に入ってしまい、その方の奥様から明日の仕事を主人の代わりにお願いできますかなんてのもありました。一大事でしたので私も快く受けました。

電話以外では現場で頼まれる事も結構ありました。インペク屋さんは一応現場に顔をだす方も結構いましたから。あとは現場でご一緒した方からなんかも、スケージュールを聞かれて仕事を受けたりしていました。

ラッキーな事に駆け出しの頃には埋まらなかったスケジュールも年月を重ねて、少しずつですが埋まるようになりました・・・幸運な事です。
ただ最後まで1月全部埋まった事は一度もありませんでしたね。月に3日休みだったのが一回あっただけです。

今迄書いた通りですね・・・スケジュールは全て自分で管理してしていました。思った以上に大変な事だった記憶があります。
あくまでも私の経験ですが、多かれ少なからず他の方も似たような感じだったと思います。

昔の話ですので・・・今の時代はどんな感じだったのかなと思ってしまいますね。メールもあるし・・・。便利な時代のミュージシャンが羨ましく思えます。

ついでですが動画もアップします・・・恐らく私が放送関係の仕事をした最後くらいの動画です。
向かって右手でオベーションを弾いているのが22か23才位の私です。
よく聴いて頂くとアコギのアルペジオが聴こえます・・・今ではこんなには弾けないと思います。今聴くとアルペジオのリズムが正確で自分でも驚きました。。。


久し振りのミュージシャン時代の話し

何度もこのブログで書いてきましたが、私がプロギタリストとしてデビューしたのが、高校3年生の冬です。
10年業界でギターを弾いて来ました。10年は長いようですが、今思うと凄いスピードで時間が過ぎ去っていたと今は感じています。

私は今迄誰のコンサートでバッキングの仕事をして来たのか・・・余り実名は書いてきませんでした。理由は色々ありますが何だか自慢話みたいになるなが嫌で書く事は控えて来ました。
しかしどうしても今書いてお置かなければ後悔するであるかと思って、勇気を持って一つのエピソードを書く事にしました。
私がプロで10年ギターを弾いて来た中で一番宝物の様なエピソードがあるのです。この事は我が家のかみさんしか知らない話なのです・・・自分の中の大切な思い出なので自分の中でしまって置きたかったのです。

私は19才になって半年してから(私は4月生まれなので高校を卒業して半年後話です)、先輩ギタリストの紹介で当時のトップアイドル・・・今では伝説となっている百恵さんのバンドに入ることになりました。
編成はホーンセクションが3名・リズム隊はドラムにパーカッションにベースはそれぞれ1名ですが、キーボードは3キーボードでした。肝心のギターですが紹介して頂いた先輩ギタリストと私の2名でした。コーラスは女性3名なのでかなりの大所帯の編成でした。当然トップ歌手ですからマネジャーさんに至っては常に4~5名はいたと思います。

まぁ駆け出しの19才の私が入れるなんて夢にも思っていませんでした、何しろ他のメンバーは30代以上の方ばかりでしたから・・・今考えてもラッキーな事だったと思いますし紹介して頂いた先輩ギタリストには感謝しかありません・・・。

百恵さんのスケジュールは本当に凄くて平日はテレビ関係の出演で、週末が地方でのライブという感じでした。
私は彼女の愛染橋と云う曲の時は、百恵さんがテレビに出る時はアコースティックギターとしてギターを弾くために一人で付いて回っていました。
業界では当時その手のギタリストは”挿し”と呼ばれていました。当時のテレビ番組は殆どがビックバンドが演奏するので、売れている歌手の方は”挿し”のギタリストを連れて出演するのが通常でした。
やはりビックバンドのギタリストでは中々表現出来ないので仕方がありませんでした。

余談ですがギターにうるさい野口五郎さんの”挿し”を演っていたのは、後にテンソウのギタリストの横内タケさんでした。何度かテレビでご一緒した事があってお話する機会がありましたが、凄く良い人でした。勿論ギターは私なんて足元にも及びませんでした。その昔かまやつひろしさんのバックでオレンジというバンドがあって、そこでギターを弾かれていたのは中学生の時に知っていたのでその話で盛り上がったりしました・・・。

私が百恵さんのバンドに在籍していたのは引退される半年くらい前までです・・・とても良い経験をさせて頂きました。
アコギで1コーラスギターと歌だけの曲なんかもあって百恵さんが私に、自分はこうやってリズムをキープしているのでギターもその感じでキープして欲しいとわざわざ私ののところま来て、リズムを口ずさんでくれました。

コンサートでは名曲ばかりで演奏していて本当に楽しかったしですが緊張もハンパではありませんでした。
いい日旅立ちや秋桜は思わず聴き入ってしまうくらい百恵さんの歌唱は素晴らしかったです。

良い事ばかりではありませんでした・・・ツインギターの絡みが駄目でお叱りを受けた事も何度かありましたし、ホーンの方達には聞こえるように嫌味も言われたりしました。辛かったですが駄目なのは自分なので必死でした。
キーボードの方たちはとても優しく接してくれましたし、その事で逆に期待に答えなくてはとプレッシャーもかなり感じていました。

エピソードは2つあります・・・。
一つは地方のステージに上る10分位前に百恵さんからこんな事を言われました・・・”私も長い事歌っているけれど自分より年下のミュージシャンと一緒にライブを演るのは初めて・・・歳を聞いてびっくりしたよ”と気さくに話して下さいました。
私は何と答えて良いのか分かりませんでした・・・確かありがとうございますなんていったと思います。

もう一つのエピソードは私の一番の思い出です。
コンサートが終わって新幹線で帰京するのですが、当然百恵さんはグリーン車で私達ミュージシャンは普通の指定席です。
そこで事件が起こりました。なんとグリーン車の百恵さんは私の所にわざわざやって来てくれて、少し話がしたいと言ってくれたのです。
当然新幹線の中はパニックです・・・百恵さんが普通の座席に来たんですからね。マネージャーさん達は大騒ぎです。
しっかりガードして大変な事になってしまいました。
百恵さんは当然窓際の席に座って私も窓際だったので、向い合せの格好になって、殆ど膝を突き合わせて1時間ほどお話をさせて頂きました・・・。驚いたのは話の内容です、私に興味があるはずなんて無いと思っていたのに、かなり私の事を色々聞かれました。音楽とは関係のない話がほとんどでしたね。
普段の生活とか、彼女は居るのかとか、いつからギターを弾いているのかとか色々質問されました。私も聞かれたからには答えない訳には行きません。最後は何だか普通の女性と話している感覚になっていました。
それくらい百恵さんは素晴らしいお人柄でしたね。

日本中の人が憧れる人のバンドでギターを弾けるだけでも幸せなのに、新幹線の座席で向かい合わせで色々な話が出来た事は遠い昔の話ですが、今でも鮮明に記憶の中にあります。
ステージやテレビとは違って、ラフなジーンズ姿だった事も驚きでした、何処にでもいる若い女性の様でした・・・そして何より気さくで良く笑う方だったのも意外でした。
あとは本当に美しい方で、光り輝いていました。
既にご結婚の発表をした後だったか、前だったかは記憶が定かではありません。

私のギター人生の中でも最高の思い出であることは間違えありません。

百恵さんのライブで初めてライブに向かう新幹線の中でマネージャーさんからその日のライブの譜面を渡された事も驚きました。私はリハもなく一体何時譜面が見れるのか不安で仕方がなかったでしたから。まさか初見でやる事はないと思っていましたが、何時までたっても譜面が手元に来なかったです。私は新幹線の中でとにかく譜面とにらめっこでした・・・そして初ライブをこなしたんですから・・・自分でもよく頑張ったと思います。

有名な引退公演のギターにはスタジオ・ミュージシャンの沢さんが弾いています。沢さんはGS関連出身のギタリストで腕前はピカイチでしたね。亡くなったジョーのバンドにいたらしいです。ギターはB・C Rich を使っていました。
私の先輩ギタリストとツインでやっていました。私の出番なんてある訳はありません、レベルが違いすぎました。
その後沢さんは沢田研二さんのバンド、エキゾチックスで初期頃ギターを弾いていました。
私が沢田研二さんのバンドのオーデションを受けた時にいらっしゃいましたね。その後に引退公演があった訳です。

引退公演のレコードは裏話があってドラムパートは渡嘉敷さんが後から差し替えのダビングをしています。色々な事情があったとの事は私も聞いています。

私がプロになって10代のうちに大人達・しかもかなりのレベルのバンドに入れた事は幸せだったとしか言えません。
しかも百恵さんと個人的にお話できた事、人生の大切な思い出です。大切にしています。

20才の私。

バンドでB.C.Rich のイーグルを弾いている、カーリーヘアが20才の時の私です。
悲しいくらい懐かし映像です・・・36年前。戻ってもっと練習したかった。。。
ちなみにこの番組では、ほぼ初見での演奏でした。
譜面を見てカウントが出るまで1分位。カメリハが始まって、OKなら即本番でした。

アンプはブギーの50W です。ブラックのモデルでした。
カッティングのコーラスは確かMXR だったと記憶しています。。。


何年も放置していました。

このブログも放置状態でしたが、のんびりとゆっくりと再開することにしました。
私の知り得る音楽理論・・・ブログに残して置きたいからです。
ギタリスト以外の方にも楽しんで頂ける様な、そんな記事が書けたら・・・と思っています。

実践では理論よりも大切な事が沢山ありますが、それも音楽的な背景があっての話です。。。
そんな事をこれからは記事に出来たらと、思っています。

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Les Paul L-5

Author:Les Paul L-5
千葉県千葉市在住

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