GuitarRoom&MusicWorld
ギターと音楽のお気楽日記
何とかここまで・・・。
高校3年の終わりからプロとしての音楽活動を始めて、10年ちょっとで自分に見切りをつけて音楽から離れる決心をしてから今年で丁度20年。
今年オリンピック・イヤーでしたが20年前と言うと“ソウル大会”だったのは鮮明に覚えています。
その大会はリハーサルの合間に皆でスタジオのテレビに向かって応援していたんですから。
ソウル大会の年の冬に現役を辞めました。
現役を辞める直前に今のかみさんと知り合い、一昨年に楽器屋でフッと目に止まったギターがあったんですよ。
後日かみさんを連れて楽器屋に行って、「買ってもいいかな?」と聞くと「そろそろいいんじゃない、又ギターを弾いても」と言ってもらったんですよね。
目に止まったギターも実は超格安のあまり人気の無いギターだったから、この位の値段ならたいして熱くなる事は無いだろうな・・・仕事にも影響しないし、と思って買ったくらいですから。
でも、やっぱりダメでしたね。1回ギターを弾いてしまうと真剣に弾いてしまうんですよね。
安物ギターでも食事も忘れて深夜まで部屋にこもって弾き倒していました。
そこから又ギター熱が上がって、ちょっといいギターを買っちゃいました。
そこからはもう歯止めが効かない状態!
セッションに出掛けては気持ちよく弾いていました。
昔の音楽関係の友人とは年に数回はメールでのやり取りなんかは続けていたんですが、自分が又ギターを弾くようになると喜んでくれる友人が多かったのがとても嬉しかったです。
そんな昔の友人達と再会したり、頻繁に連絡を取り合ったり、ライブを観に行ったり、挙句の果てはリハで一緒にやったりと・・・20年間の空白が音楽ひとつで埋まってしまう事にビックリしました。
私がやっていた10年間で知り合ったミュージシャンは数知れず、今でも活躍している友人もいるしその時代に知り合った彼らは私にとって貴重な財産と呼べるでしょう。
セッションに出没するようになって約1年後に自分のバンドでライブと呼べるかどうかは別として、お客さんの前で演奏する事も出来ました。とてもいいライブだったと思います。
それから更に半年経った今、昔のミュージシャン仲間から声が掛かり今週ようやくプロとしてステージでライブを演る事が出来ました。
最初は二の足を踏んでいたんですが、やはり昔からの付き合いで相手も私の事を良く知っていてくれて一緒にやろうよ・・・と声を掛けてくれたんですよね。
もう二度とステージで演奏する事は無いと思っていたので諦めていたのですが、チャンスが折角あるのだからもう一度やりたいと思うようにもなりました。
最大のネックは私の長いブランク。ただこの1年半、自分でもよく練習して昔までとは行きませんが今の年齢でしか弾けないギターが弾けるようにまでは辿り着いたと思います。
そのライブですが、歌のバックだったんですがアレンジとキーボードの方は私の現役時代の友人に共通の人がかなり多くて昔にタイムスリップしたような気分でした。
共通の友人に連絡を取ってみると、皆「良かったね、頑張ってね」と言ってくれた人が多かったです。
ステージで弾いていて、昔ほどの大きなホールで弾いた訳ではありませんがやはりお客さんを前にして演奏していた当時を思い出す事が出来ました。
「あ〜こんな感じだったかな」と言うのが正直な感想で、とても気持ちよくギターを弾く事が出来ました。
誘ってくれた友人にも感謝しています。
20年近いブランクが良かったのか悪かったのかは私にも分かりません。
ただ自分から一度は辞めたプロのステージに戻れた瞬間はとても幸せだったかも知れません。
もし安物ギターが目に付かなかったら、セッションに足が向かなかったら、今の自分は全然違ったと思います。
やはりギターに感謝ですね。
20年の時を経てやっと辿り着く事が出来て今は不思議な気持ちです。
今年オリンピック・イヤーでしたが20年前と言うと“ソウル大会”だったのは鮮明に覚えています。
その大会はリハーサルの合間に皆でスタジオのテレビに向かって応援していたんですから。
ソウル大会の年の冬に現役を辞めました。
現役を辞める直前に今のかみさんと知り合い、一昨年に楽器屋でフッと目に止まったギターがあったんですよ。
後日かみさんを連れて楽器屋に行って、「買ってもいいかな?」と聞くと「そろそろいいんじゃない、又ギターを弾いても」と言ってもらったんですよね。
目に止まったギターも実は超格安のあまり人気の無いギターだったから、この位の値段ならたいして熱くなる事は無いだろうな・・・仕事にも影響しないし、と思って買ったくらいですから。
でも、やっぱりダメでしたね。1回ギターを弾いてしまうと真剣に弾いてしまうんですよね。
安物ギターでも食事も忘れて深夜まで部屋にこもって弾き倒していました。
そこから又ギター熱が上がって、ちょっといいギターを買っちゃいました。
そこからはもう歯止めが効かない状態!
セッションに出掛けては気持ちよく弾いていました。
昔の音楽関係の友人とは年に数回はメールでのやり取りなんかは続けていたんですが、自分が又ギターを弾くようになると喜んでくれる友人が多かったのがとても嬉しかったです。
そんな昔の友人達と再会したり、頻繁に連絡を取り合ったり、ライブを観に行ったり、挙句の果てはリハで一緒にやったりと・・・20年間の空白が音楽ひとつで埋まってしまう事にビックリしました。
私がやっていた10年間で知り合ったミュージシャンは数知れず、今でも活躍している友人もいるしその時代に知り合った彼らは私にとって貴重な財産と呼べるでしょう。
セッションに出没するようになって約1年後に自分のバンドでライブと呼べるかどうかは別として、お客さんの前で演奏する事も出来ました。とてもいいライブだったと思います。
それから更に半年経った今、昔のミュージシャン仲間から声が掛かり今週ようやくプロとしてステージでライブを演る事が出来ました。
最初は二の足を踏んでいたんですが、やはり昔からの付き合いで相手も私の事を良く知っていてくれて一緒にやろうよ・・・と声を掛けてくれたんですよね。
もう二度とステージで演奏する事は無いと思っていたので諦めていたのですが、チャンスが折角あるのだからもう一度やりたいと思うようにもなりました。
最大のネックは私の長いブランク。ただこの1年半、自分でもよく練習して昔までとは行きませんが今の年齢でしか弾けないギターが弾けるようにまでは辿り着いたと思います。
そのライブですが、歌のバックだったんですがアレンジとキーボードの方は私の現役時代の友人に共通の人がかなり多くて昔にタイムスリップしたような気分でした。
共通の友人に連絡を取ってみると、皆「良かったね、頑張ってね」と言ってくれた人が多かったです。
ステージで弾いていて、昔ほどの大きなホールで弾いた訳ではありませんがやはりお客さんを前にして演奏していた当時を思い出す事が出来ました。
「あ〜こんな感じだったかな」と言うのが正直な感想で、とても気持ちよくギターを弾く事が出来ました。
誘ってくれた友人にも感謝しています。
20年近いブランクが良かったのか悪かったのかは私にも分かりません。
ただ自分から一度は辞めたプロのステージに戻れた瞬間はとても幸せだったかも知れません。
もし安物ギターが目に付かなかったら、セッションに足が向かなかったら、今の自分は全然違ったと思います。
やはりギターに感謝ですね。
20年の時を経てやっと辿り着く事が出来て今は不思議な気持ちです。
ミュージシャン時代の生活・リハーサル編
リハーサル・・・と言っても色々なパターンのリハーサルがありました。
リハ無しでライブは当然出来ない訳で、リハーサルって本当に重要な作業でした。
リハってライブよりも緊張する仕事でした。ライブはリハーサルでやった事を再現出来れば成功だったと言えるでしょう。(あくまでも演奏面に関してですが・・・ライブって中々上手く行かないんですよ何故か、何だかんだトラブルがあるんですよね)
リハで使うスタジオってそんなに沢山は無くて、限られた幾つかのスタジオでやっていた記憶があります。
一度だけ最終リハをランスルーを兼ねて都内のレコーディングスタジオで録音しながら演ったのはかなり珍しい方です。
新たにメンバーを集めてバッキングの仕事をする場合、最初のリハでは初対面のミュージシャンなんかもいてコミュニケーションをとるのに意外と大変でした。
ただ、回を重ねれば問題のある事では無かったです。
私達が使っていたスタジオって、アマチュアの方が使っていたスタジオと決定的に違うのは、広さと音響面でした。鏡張りのスタジオが殆どでした。
リハーサルの時ってかなりの音量で演奏するので、狭い部屋だと大変な事になってしまいます。
機材もある程度の機材が揃っていたので、アンプを持ち込まなくても対応出来る状態でした。
殆どのスタジオが喫茶室を備えていたので、休憩の時の飲食には不自由しませんでした。来るミュージシャンも殆どが車で来るので、スタジオのスタッフにキーを預ければ対応してもらっていました。
初回のリハはほぼ関係者全員が集まるのが通常でした。
関係者それぞれが自己紹介したり、緊迫感のある雰囲気でした。
勿論、バンドだけ先に1〜2回音出しだけのリハをやる事もありました。
アレンジャーが付いている場合は間違いなくアレンジャーさんもリハに立ち会っていました。
プレーヤーがアレンジャーを兼ねている場合もかなりありました。
ライブって決してレコードの通り演奏する訳ではなくて、レコードではフェイドアウトしている曲にエンディングを付けたり、イントロや間奏を変えたり、色々な所をいじって行く訳で特にバンドの編成によって変えたりする事が多々ありました。
そんな時はアレンジャー主導で意見を出したり、当然歌手の方もこうして欲しい・・・と言う要望もあったりミュージシャン側からも結構意見を言ったもんです。
特にギターソロが絡む場面なんかは私もこうした方が弾きやすい・・・と言った事も何度かあります。(ギターソロの前に色々な仕掛けを作ってハイ!ソロです・・・みたいにする事って結構あったんですよ)
特にオープニングの長さなんかは歌手の方の登場の仕方に影響するので、結構細かい所まで作り込んだり照明の切り替えのタイミングや色々な事が絡んで来るので、アレンジに関しては事前に貰っていた譜面が役に立たなくなってしまうような事もあります。
何にしてもライブでいい演奏をする為には、リハの段階でキッチリ音を作って置かないといけないので大変でした。(ただ音を作って行く作業は楽しかったんですよ)
ある時メローな感じの16ビートの曲で、間奏はエレピだったんですがクリーントーンでギターのオブリを入れたら歌手の方が「ギターで間奏をお願い出来します・・・」と言われた様な事もあるくらい現場で色々と変化して行くんですよね。
特にギターとキーボードはコードがぶつかる事が無いようにトップを合わせたり、ベースとドラムで仕掛けを作ったりとかなり細かい部分まで突っ込んで音を作っていました。現場で格好いいと思う事はどんどんやっていました。
当時の流行では、オープニングに派手目のインストを持って来る事が多く、そんな時はギターが当然のようにディストーションをバリバリで弾くのが流行りみたいなもんでしたので、結構頑張って弾きました。
リハの時に細かく打ち合わせするのはPAの関係者とでした。ソロとバッキングの音量差やディストーションを掛けた時の音量差やアコギの拾い方などでした。
レコーディングは基本的にソロでもバッキングでも音量差をつけないのが当時の通常でしたが、やはりライブだとソロはソロでボリュームを上げないとメリハリが全く付かなくなってしまいますからね。
アコギは基本的にTCのプリアンプからラインで録ってもらっていました。一番拾い易かった方法だったと思います。
リハは基本的に午後スタートが通常でしたが、ミュージシャンって結構ルーズなタイプが多くて遅刻する人って結構日常的でした。
1時スタートのリハでも音が出るのは2時・・・なんてのは当たり前の感じでした。
リハーサルは短い時でも4時間くらい。最終リハの長丁場でも8〜10時間くらいだったと思います。
リハーサルは集中力が必要なので、かなりの重労働でした。
ゲネプロなんてのも何度か経験しましたが、ホールできっちりライブと同じ事をやるのであまりリハーサルっていう感じはしませんでした。一度だけファンクラブの方を招待してのゲネプロなんてのもあって、余計そう感じたんでしょうね。
リハが終わってからのミュージシャン同士での食事は楽しかった想い出しかありません。
もう一度そういうリハを体験してみたいと思うくらいいい想い出です。
リハ無しでライブは当然出来ない訳で、リハーサルって本当に重要な作業でした。
リハってライブよりも緊張する仕事でした。ライブはリハーサルでやった事を再現出来れば成功だったと言えるでしょう。(あくまでも演奏面に関してですが・・・ライブって中々上手く行かないんですよ何故か、何だかんだトラブルがあるんですよね)
リハで使うスタジオってそんなに沢山は無くて、限られた幾つかのスタジオでやっていた記憶があります。
一度だけ最終リハをランスルーを兼ねて都内のレコーディングスタジオで録音しながら演ったのはかなり珍しい方です。
新たにメンバーを集めてバッキングの仕事をする場合、最初のリハでは初対面のミュージシャンなんかもいてコミュニケーションをとるのに意外と大変でした。
ただ、回を重ねれば問題のある事では無かったです。
私達が使っていたスタジオって、アマチュアの方が使っていたスタジオと決定的に違うのは、広さと音響面でした。鏡張りのスタジオが殆どでした。
リハーサルの時ってかなりの音量で演奏するので、狭い部屋だと大変な事になってしまいます。
機材もある程度の機材が揃っていたので、アンプを持ち込まなくても対応出来る状態でした。
殆どのスタジオが喫茶室を備えていたので、休憩の時の飲食には不自由しませんでした。来るミュージシャンも殆どが車で来るので、スタジオのスタッフにキーを預ければ対応してもらっていました。
初回のリハはほぼ関係者全員が集まるのが通常でした。
関係者それぞれが自己紹介したり、緊迫感のある雰囲気でした。
勿論、バンドだけ先に1〜2回音出しだけのリハをやる事もありました。
アレンジャーが付いている場合は間違いなくアレンジャーさんもリハに立ち会っていました。
プレーヤーがアレンジャーを兼ねている場合もかなりありました。
ライブって決してレコードの通り演奏する訳ではなくて、レコードではフェイドアウトしている曲にエンディングを付けたり、イントロや間奏を変えたり、色々な所をいじって行く訳で特にバンドの編成によって変えたりする事が多々ありました。
そんな時はアレンジャー主導で意見を出したり、当然歌手の方もこうして欲しい・・・と言う要望もあったりミュージシャン側からも結構意見を言ったもんです。
特にギターソロが絡む場面なんかは私もこうした方が弾きやすい・・・と言った事も何度かあります。(ギターソロの前に色々な仕掛けを作ってハイ!ソロです・・・みたいにする事って結構あったんですよ)
特にオープニングの長さなんかは歌手の方の登場の仕方に影響するので、結構細かい所まで作り込んだり照明の切り替えのタイミングや色々な事が絡んで来るので、アレンジに関しては事前に貰っていた譜面が役に立たなくなってしまうような事もあります。
何にしてもライブでいい演奏をする為には、リハの段階でキッチリ音を作って置かないといけないので大変でした。(ただ音を作って行く作業は楽しかったんですよ)
ある時メローな感じの16ビートの曲で、間奏はエレピだったんですがクリーントーンでギターのオブリを入れたら歌手の方が「ギターで間奏をお願い出来します・・・」と言われた様な事もあるくらい現場で色々と変化して行くんですよね。
特にギターとキーボードはコードがぶつかる事が無いようにトップを合わせたり、ベースとドラムで仕掛けを作ったりとかなり細かい部分まで突っ込んで音を作っていました。現場で格好いいと思う事はどんどんやっていました。
当時の流行では、オープニングに派手目のインストを持って来る事が多く、そんな時はギターが当然のようにディストーションをバリバリで弾くのが流行りみたいなもんでしたので、結構頑張って弾きました。
リハの時に細かく打ち合わせするのはPAの関係者とでした。ソロとバッキングの音量差やディストーションを掛けた時の音量差やアコギの拾い方などでした。
レコーディングは基本的にソロでもバッキングでも音量差をつけないのが当時の通常でしたが、やはりライブだとソロはソロでボリュームを上げないとメリハリが全く付かなくなってしまいますからね。
アコギは基本的にTCのプリアンプからラインで録ってもらっていました。一番拾い易かった方法だったと思います。
リハは基本的に午後スタートが通常でしたが、ミュージシャンって結構ルーズなタイプが多くて遅刻する人って結構日常的でした。
1時スタートのリハでも音が出るのは2時・・・なんてのは当たり前の感じでした。
リハーサルは短い時でも4時間くらい。最終リハの長丁場でも8〜10時間くらいだったと思います。
リハーサルは集中力が必要なので、かなりの重労働でした。
ゲネプロなんてのも何度か経験しましたが、ホールできっちりライブと同じ事をやるのであまりリハーサルっていう感じはしませんでした。一度だけファンクラブの方を招待してのゲネプロなんてのもあって、余計そう感じたんでしょうね。
リハが終わってからのミュージシャン同士での食事は楽しかった想い出しかありません。
もう一度そういうリハを体験してみたいと思うくらいいい想い出です。
ミュージシャン時代の生活・ライブ編
昔を懐かしんでばかりもいられくらい年をとってしまいましたが、80年代に私がメインでやっていたライブの仕事の状況を思い出しながら書く事にします。
ライブも色々な形があると思いますが、基本的には90%以上はホールでのライブでした。
職業柄ほぼ日本全国行った事の無い都道府県はありません。
どの地方にも有名なホールが存在する訳で、どこも当時は似通った作りでした。大きな地方都市(札幌・大阪・名古屋・博多etc)は数限りなく行った記憶があります。
個人的に一番好きなホールは、あくまでも独断と偏見ですが“京都会館”です。
理由は色々あるんですが、敷地内にある離れのような喫茶店の雰囲気が大好きで、本番前のどんなに時間が無い時でもお茶をしに行っていました。今でもあると嬉しいんですが・・・。
ライブの当日の事を何となく書く事にします。
余程の遠方や交通の便の悪い所以外は、当日の朝出発すれば本番に間に合うのでほぼ始発便の利用になります。
北海道・沖縄でも当日出発は当たり前の状況でした。
基本的に昼過ぎには目的地に到着して、ホールに直行が当たり前の感じでした。
着いてすぐに控え室に行くんですが、まずは一服する間もなくステージに行って楽器のセッティングをチェックしに行きます。
レギュラーで長くやっているライブなんかは、事前にPA屋さんにアンプやラックを預けてセッティングの段階まではやってもらっていました。
セッティングと言っても定位置にアンプなんかが置いてあるだけで、細かい事は自分でやるのが通常でした。慣れたライブでは結構キチンと電源やラックのセッティングまでお世話してくれるPA屋さんもいて感謝しています。
ドラム・キーボード関係も、行けばいい状態までになっていて我々としてはとてもやり易かったです。
セッティングチェックにはそんなに時間は掛けられませんが、リハが出来る状態にするのに30分もあれば充分な感じでした。
もうその時点でだいたい2時〜3時近くになっているので、取り急ぎで休憩してリハに望みました。
リハと言ってもPAのバランスと照明の感じをチェックするのがメインなので、リハでやる曲って大体決まった曲でやっていました。
問題が無ければ小一時間もあればリハは終わりで本番まで少し休める感じです。(状況にもよりますが、一時間から長くて一時間半くらいでした)
問題があると開場ギリギリまでリハをする事もしばしばありました。
一番のトラブルは、レンタルしたキーボードが全くダメで直ぐに手配して近隣の楽器屋さんから至急で用意してもらった時は本当に困った覚えがあります。
本番前の時間の過ごし方は、各自それぞれ色々な過ごし方があります。
まず女性陣(コーラスやキーボードの方が殆どでした)はお色直しと衣装替えに忙しくしていた記憶があります。
男性陣も着替えは結構やっていました。ステージによってはメンバーは黒っぽい服装・・・なんて指定があった時もありました。80年代黒系の服が流行ったりしていましたからね。
稀ですが、出来たらスーツでなんて時もあったんですがギターが弾き難くてたまりませんでした。
後は軽く食事なんですが、大体は控え室に用意されているサンドイッチ類やお弁当で済ませていました。当然外に出る時間は100%無かったんですが、京都会館の時だけは喫茶店にお邪魔していました。
リハ前の段階で張替えられる弦は全て張り替えているので、あまり楽器を触っている事は無かったです。
指慣らし程度しかギターには触らなかったです。勿論チューニングもするんですが、控え室とステージではチューニングが変わってしまうので、アコギやフロイトローズの付いていないギターはステージに置きっぱなしが多かったです。
ステージ前って若い時から意外と度胸が良かったのか、緊張する事ってあまり無かったです。
ライブ前のリハの段階で相当弾き込んでいるので、本当に緊張って無かったですね。
最近のバンドのライブの映像や、海外のミュージシャンのライブの映像なんかを見ると、ステージに上がる直前にミュージシャン皆が集まって高校野球のように円陣を組んで掛け声を掛けるのをよく見かけますよね。
私がライブを始めた頃ってそういう事をやっている人っていなかったと思います。
私もそういう行動をするようになったライブって、85〜86年くらいだったと思います。当時は何だか皆で頑張ろう・・・みたいな軽いノリでやっていたんですが、やっている本人はチョット違和感を覚えていました。
今の時代は何だかそれが当たり前のような感じらしいです。確かに気合は入るんでしょうけど・・・。
そんなこんなは別として、やはりステージは気合が入っているのか終わるともの凄く疲れました。
盛り上がったり、個人的に凄くテンションが上がったライブの後って少しばかり放心状態に近い感じでした。
逆にお仕事のノリみたいなライブもあったにはあったんですが、弾き始めるとどんなステージも同じ気持ちで弾いていました。
ライブが終わって飲み物を飲んで一服してから、ようやくステージの片付けにミュージシャンが行くんですが、ステージ上はすでに戦場と化していてPA・照明スタッフ入り乱れてのもの凄い状況になっています。あちこちで大声や人が入り乱れていて、ついさっきまでのステージの雰囲気は全くありません。
そんな中で我々も取り急ぎで楽器の撤収にてんやわんやでした。
そこで会場とはお別れして、当日に帰れる場合は速攻で駅や空港に向かうんですがあまりそういう時間にライブが終わる事は稀なので、一旦ホテルに向かいます。
基本的にホテルにチェックインしてゆっくりしている時間はあまり無かったと思います。
部屋に着いて荷物だけ置いてすぐにロビーに集合・・・ってのが多かったです。
当然打ち上げの為の集合です。打ち上げの始まる時間って世間的には決して褒められた時間に始まっていなかったと思います。ライブ後ですから仕方無いですよね。
地方に行くと大体その地方のプロモーターと言うか、我々は“呼び屋さん”と呼んでいましたがイベント会社みたいなのが絡んでいるので、その会社主催の打ち上げが殆どでした。
打ち上げはモチロン盛り上がるのは当たり前の世界でした。私はあまりお酒が強い方では無かったので、食べる方専門でした。
当日の始発に近い交通機関で地方に行って、リハをやりライブを1本こなして更に打ち上げ・・・若い時の体力だから出来たんでしょうがとても楽しかったです。
ミュージシャン同士打ち上げ後にホテルの部屋で皆で集まって、明け方近くまで音楽についての話で盛り上がったりした事は私の大切な想い出です。
ライブも色々な形があると思いますが、基本的には90%以上はホールでのライブでした。
職業柄ほぼ日本全国行った事の無い都道府県はありません。
どの地方にも有名なホールが存在する訳で、どこも当時は似通った作りでした。大きな地方都市(札幌・大阪・名古屋・博多etc)は数限りなく行った記憶があります。
個人的に一番好きなホールは、あくまでも独断と偏見ですが“京都会館”です。
理由は色々あるんですが、敷地内にある離れのような喫茶店の雰囲気が大好きで、本番前のどんなに時間が無い時でもお茶をしに行っていました。今でもあると嬉しいんですが・・・。
ライブの当日の事を何となく書く事にします。
余程の遠方や交通の便の悪い所以外は、当日の朝出発すれば本番に間に合うのでほぼ始発便の利用になります。
北海道・沖縄でも当日出発は当たり前の状況でした。
基本的に昼過ぎには目的地に到着して、ホールに直行が当たり前の感じでした。
着いてすぐに控え室に行くんですが、まずは一服する間もなくステージに行って楽器のセッティングをチェックしに行きます。
レギュラーで長くやっているライブなんかは、事前にPA屋さんにアンプやラックを預けてセッティングの段階まではやってもらっていました。
セッティングと言っても定位置にアンプなんかが置いてあるだけで、細かい事は自分でやるのが通常でした。慣れたライブでは結構キチンと電源やラックのセッティングまでお世話してくれるPA屋さんもいて感謝しています。
ドラム・キーボード関係も、行けばいい状態までになっていて我々としてはとてもやり易かったです。
セッティングチェックにはそんなに時間は掛けられませんが、リハが出来る状態にするのに30分もあれば充分な感じでした。
もうその時点でだいたい2時〜3時近くになっているので、取り急ぎで休憩してリハに望みました。
リハと言ってもPAのバランスと照明の感じをチェックするのがメインなので、リハでやる曲って大体決まった曲でやっていました。
問題が無ければ小一時間もあればリハは終わりで本番まで少し休める感じです。(状況にもよりますが、一時間から長くて一時間半くらいでした)
問題があると開場ギリギリまでリハをする事もしばしばありました。
一番のトラブルは、レンタルしたキーボードが全くダメで直ぐに手配して近隣の楽器屋さんから至急で用意してもらった時は本当に困った覚えがあります。
本番前の時間の過ごし方は、各自それぞれ色々な過ごし方があります。
まず女性陣(コーラスやキーボードの方が殆どでした)はお色直しと衣装替えに忙しくしていた記憶があります。
男性陣も着替えは結構やっていました。ステージによってはメンバーは黒っぽい服装・・・なんて指定があった時もありました。80年代黒系の服が流行ったりしていましたからね。
稀ですが、出来たらスーツでなんて時もあったんですがギターが弾き難くてたまりませんでした。
後は軽く食事なんですが、大体は控え室に用意されているサンドイッチ類やお弁当で済ませていました。当然外に出る時間は100%無かったんですが、京都会館の時だけは喫茶店にお邪魔していました。
リハ前の段階で張替えられる弦は全て張り替えているので、あまり楽器を触っている事は無かったです。
指慣らし程度しかギターには触らなかったです。勿論チューニングもするんですが、控え室とステージではチューニングが変わってしまうので、アコギやフロイトローズの付いていないギターはステージに置きっぱなしが多かったです。
ステージ前って若い時から意外と度胸が良かったのか、緊張する事ってあまり無かったです。
ライブ前のリハの段階で相当弾き込んでいるので、本当に緊張って無かったですね。
最近のバンドのライブの映像や、海外のミュージシャンのライブの映像なんかを見ると、ステージに上がる直前にミュージシャン皆が集まって高校野球のように円陣を組んで掛け声を掛けるのをよく見かけますよね。
私がライブを始めた頃ってそういう事をやっている人っていなかったと思います。
私もそういう行動をするようになったライブって、85〜86年くらいだったと思います。当時は何だか皆で頑張ろう・・・みたいな軽いノリでやっていたんですが、やっている本人はチョット違和感を覚えていました。
今の時代は何だかそれが当たり前のような感じらしいです。確かに気合は入るんでしょうけど・・・。
そんなこんなは別として、やはりステージは気合が入っているのか終わるともの凄く疲れました。
盛り上がったり、個人的に凄くテンションが上がったライブの後って少しばかり放心状態に近い感じでした。
逆にお仕事のノリみたいなライブもあったにはあったんですが、弾き始めるとどんなステージも同じ気持ちで弾いていました。
ライブが終わって飲み物を飲んで一服してから、ようやくステージの片付けにミュージシャンが行くんですが、ステージ上はすでに戦場と化していてPA・照明スタッフ入り乱れてのもの凄い状況になっています。あちこちで大声や人が入り乱れていて、ついさっきまでのステージの雰囲気は全くありません。
そんな中で我々も取り急ぎで楽器の撤収にてんやわんやでした。
そこで会場とはお別れして、当日に帰れる場合は速攻で駅や空港に向かうんですがあまりそういう時間にライブが終わる事は稀なので、一旦ホテルに向かいます。
基本的にホテルにチェックインしてゆっくりしている時間はあまり無かったと思います。
部屋に着いて荷物だけ置いてすぐにロビーに集合・・・ってのが多かったです。
当然打ち上げの為の集合です。打ち上げの始まる時間って世間的には決して褒められた時間に始まっていなかったと思います。ライブ後ですから仕方無いですよね。
地方に行くと大体その地方のプロモーターと言うか、我々は“呼び屋さん”と呼んでいましたがイベント会社みたいなのが絡んでいるので、その会社主催の打ち上げが殆どでした。
打ち上げはモチロン盛り上がるのは当たり前の世界でした。私はあまりお酒が強い方では無かったので、食べる方専門でした。
当日の始発に近い交通機関で地方に行って、リハをやりライブを1本こなして更に打ち上げ・・・若い時の体力だから出来たんでしょうがとても楽しかったです。
ミュージシャン同士打ち上げ後にホテルの部屋で皆で集まって、明け方近くまで音楽についての話で盛り上がったりした事は私の大切な想い出です。
ミュージシャン時代の生活 その3
音楽とはあまり関係無い話になってしまいそうですが。。。
私は生まれも育ちも東京の世田谷で、中学生の頃からバスに乗っては渋谷に一人で出掛けるような子供でした。妹ばかりが3人の兄妹だったので、基本的に家に居る・・・と言うより外に出るタイプだったと思います。
中学生の頃は出掛けると言っても、殆どが楽器屋さんでした。公園通りにパルコがオープンした時なんかは、今でも良く覚えています。
高校生になると、チョットませていたのか夜の街に出る事が多くなりました。
だいたい出掛けるのって学校から帰って着替えてからでした。
高校生のくせに、よく行った街って赤坂・六本木・青山・渋谷あたりでした。
当時のその辺りって、夜は今と違って人通りも少ないし(街のネオンが暗かったのが印象に残っています)、子供が出入りするようなお店もあまり無かったです。
そんな中でも赤坂の“ビブロス”や“ムゲン”とか六本木あたりでは“ケントス”なんかに良く行ったもんです。
ムゲンやビブロスは明らかに大人のディスコって感じでしたが、たまに外国人の生バンドが出ていたりしていたんですよね。売れない大人の芸能人達も、良く見掛けました。
ムゲンに出ていた“タワー・オブ・パワー”の小編成と思われるバンドを見た事があります。
(私の記憶が確かなら、タワー〜のメンバーが何人か居たのは間違いありません)
そういう場所って決して踊りに行く訳じゃなくて、なんとなく大人の世界に興味があったんでしょうね。
老けて見えるタイプだったので、補導される事も無く、朝まで街にいました。
赤坂のダンキンドーナツや青山のエンドレスって喫茶店や渋谷のエルシドなんかは良く利用しました。遅くまでやっているお店って限られていましたからね。
ミュージシャンとして生活をするようになってから暫くは、音楽に没頭する生活で遊びで外に出る事ってだいぶ減りました。
それでも20歳を越してからは、やはり夜型人間だったのか結構色々なお店に行くようになりました。
80年代初頭からテクノやニューウェーブ系の音楽が流行りだし、半ばにはその残党や影響を受けたミュージシャン達も数多く現れて、私の回りも気が付くとそういう系のミュージシャンって結構いました。
それぞれのミュージシャンは、アンダーグラウンドではあったと思いますが、東京の先端の音を作ろうと頑張っていたはずです。
そんな彼らのライブを見に行くのって、凄く楽しかったです。
(ひとつだけたまげたライブは、ある有名なパンクバンド出身のボーカリストのライブで、ステージ上で鶏の首をチョン切った事です)
そんな時代に自分で一番変わったのは、ヘアースタイルとファッションでした。
“ロン毛”と言う言葉すら無い時代に、3年掛けてロングヘアーにしました。一番長い時で胸くらいまでありましたね。
かみさんと知り合った当時は、肩くらいの長さでしたがとても評判が悪かったようです。(他の女性からは評判は良かったんですが・・・)
当時の写真を見ると、いいのか悪いのか恥ずかしいだけです。
(そのせいで人よりも髪が薄くなったと今思っています)
色々なイベントもあちこちであったり、いい時代だったと思います。
ラップの超初期の頃の動きなんてのも、肌で感じる事が出来ました。
私が経験して来た音楽とは随分差があったジャンルだと思いますが、当時は目新しい物はなんでも聴きあさっていた時代でした。
そんな時期に良く行ったお店って、霞町の“レッドシューズ”とか芝浦の“インクスティック”やら神宮前にあった“クラブD”なんかでした。
結構有名どころの人もチラホラ見掛ける事が多かったです。
その後、新世代のロックと言うか“ガンズ”を頂点とするロック系のバンドも現れて、“シンデレラ”や“キングダムカム”や“ザック・ワイルド”見たさにオジー・オズボーンまで見に行きました。
どんなに大きなホールでも、一応業界にいたのでかなりいい席(殆どが最前列)で見る事が出来ました。
仕事としての音楽と、自分が好きな音楽と、時代の流れの音楽との色々な音に浸かっていた時期でした。
そのどれもが私にとっては大切な音楽でした。決して流行っているから好き、とかそういう事では無く自分で納得して聴いていた音楽だった事は間違いありません。
そういう夜のお店とは全然別に、自分で一番好きなお店って決まっていました。
当時はまだオープンカフェ自体があまり無い時期で、季節限定で(夏場だけ)表参道の森英恵ビルの1階のオープンカフェでした。
時間は夕方の5時以降が一番のお気に入りでした。
今でも一番好きな時間って、夏の夕方なんですよね。
裏原宿にあるバンブーも好きなお店でした。
東京以外で良く遊びに行ったのは、やはり湘南でした。夏の時期、夜第3京浜に乗って湘南に向かうのって音楽以外の面の私の青春だったかも知れません。
完璧にこれは、現地の友人も多かったのが理由ですが、葉山の“茶屋”とか茅ヶ崎の“リトル・ジョージ”なんかは本当に良く行きました。一時表参道にも“茶屋”の姉妹店がオープンして、結構通いました。
今ではとても懐かしい思い出です。
音楽とはかけ離れた内容ですが、私にも人と成りがあったんですよね・・・。
その時期の思い出は大切にしたいと、この年になっても思います。
私は生まれも育ちも東京の世田谷で、中学生の頃からバスに乗っては渋谷に一人で出掛けるような子供でした。妹ばかりが3人の兄妹だったので、基本的に家に居る・・・と言うより外に出るタイプだったと思います。
中学生の頃は出掛けると言っても、殆どが楽器屋さんでした。公園通りにパルコがオープンした時なんかは、今でも良く覚えています。
高校生になると、チョットませていたのか夜の街に出る事が多くなりました。
だいたい出掛けるのって学校から帰って着替えてからでした。
高校生のくせに、よく行った街って赤坂・六本木・青山・渋谷あたりでした。
当時のその辺りって、夜は今と違って人通りも少ないし(街のネオンが暗かったのが印象に残っています)、子供が出入りするようなお店もあまり無かったです。
そんな中でも赤坂の“ビブロス”や“ムゲン”とか六本木あたりでは“ケントス”なんかに良く行ったもんです。
ムゲンやビブロスは明らかに大人のディスコって感じでしたが、たまに外国人の生バンドが出ていたりしていたんですよね。売れない大人の芸能人達も、良く見掛けました。
ムゲンに出ていた“タワー・オブ・パワー”の小編成と思われるバンドを見た事があります。
(私の記憶が確かなら、タワー〜のメンバーが何人か居たのは間違いありません)
そういう場所って決して踊りに行く訳じゃなくて、なんとなく大人の世界に興味があったんでしょうね。
老けて見えるタイプだったので、補導される事も無く、朝まで街にいました。
赤坂のダンキンドーナツや青山のエンドレスって喫茶店や渋谷のエルシドなんかは良く利用しました。遅くまでやっているお店って限られていましたからね。
ミュージシャンとして生活をするようになってから暫くは、音楽に没頭する生活で遊びで外に出る事ってだいぶ減りました。
それでも20歳を越してからは、やはり夜型人間だったのか結構色々なお店に行くようになりました。
80年代初頭からテクノやニューウェーブ系の音楽が流行りだし、半ばにはその残党や影響を受けたミュージシャン達も数多く現れて、私の回りも気が付くとそういう系のミュージシャンって結構いました。
それぞれのミュージシャンは、アンダーグラウンドではあったと思いますが、東京の先端の音を作ろうと頑張っていたはずです。
そんな彼らのライブを見に行くのって、凄く楽しかったです。
(ひとつだけたまげたライブは、ある有名なパンクバンド出身のボーカリストのライブで、ステージ上で鶏の首をチョン切った事です)
そんな時代に自分で一番変わったのは、ヘアースタイルとファッションでした。
“ロン毛”と言う言葉すら無い時代に、3年掛けてロングヘアーにしました。一番長い時で胸くらいまでありましたね。
かみさんと知り合った当時は、肩くらいの長さでしたがとても評判が悪かったようです。(他の女性からは評判は良かったんですが・・・)
当時の写真を見ると、いいのか悪いのか恥ずかしいだけです。
(そのせいで人よりも髪が薄くなったと今思っています)
色々なイベントもあちこちであったり、いい時代だったと思います。
ラップの超初期の頃の動きなんてのも、肌で感じる事が出来ました。
私が経験して来た音楽とは随分差があったジャンルだと思いますが、当時は目新しい物はなんでも聴きあさっていた時代でした。
そんな時期に良く行ったお店って、霞町の“レッドシューズ”とか芝浦の“インクスティック”やら神宮前にあった“クラブD”なんかでした。
結構有名どころの人もチラホラ見掛ける事が多かったです。
その後、新世代のロックと言うか“ガンズ”を頂点とするロック系のバンドも現れて、“シンデレラ”や“キングダムカム”や“ザック・ワイルド”見たさにオジー・オズボーンまで見に行きました。
どんなに大きなホールでも、一応業界にいたのでかなりいい席(殆どが最前列)で見る事が出来ました。
仕事としての音楽と、自分が好きな音楽と、時代の流れの音楽との色々な音に浸かっていた時期でした。
そのどれもが私にとっては大切な音楽でした。決して流行っているから好き、とかそういう事では無く自分で納得して聴いていた音楽だった事は間違いありません。
そういう夜のお店とは全然別に、自分で一番好きなお店って決まっていました。
当時はまだオープンカフェ自体があまり無い時期で、季節限定で(夏場だけ)表参道の森英恵ビルの1階のオープンカフェでした。
時間は夕方の5時以降が一番のお気に入りでした。
今でも一番好きな時間って、夏の夕方なんですよね。
裏原宿にあるバンブーも好きなお店でした。
東京以外で良く遊びに行ったのは、やはり湘南でした。夏の時期、夜第3京浜に乗って湘南に向かうのって音楽以外の面の私の青春だったかも知れません。
完璧にこれは、現地の友人も多かったのが理由ですが、葉山の“茶屋”とか茅ヶ崎の“リトル・ジョージ”なんかは本当に良く行きました。一時表参道にも“茶屋”の姉妹店がオープンして、結構通いました。
今ではとても懐かしい思い出です。
音楽とはかけ離れた内容ですが、私にも人と成りがあったんですよね・・・。
その時期の思い出は大切にしたいと、この年になっても思います。
現役引退の理由。。。
ブログを始めて半年近く経ちました。
楽器の話しやら色々書いて来ましたが、それでは何故まずまず(自分がそう思っているだけかもしれませんが・・・)の状況で音楽で生活が成り立っていたのに、キッパリ音楽を辞めたのか書くのも必要かな?と思います。
当時はやはり、歌謡曲系の歌手の方とニューミュージック系の歌手の方の線引きみたいなのはあったと思います。(演奏する側ももちろん)
最初にプロになって始めた仕事は、歌謡曲系の仕事ばかりでした。
信じられないでしょうが、私が18〜19歳の頃なんて私の両親がナツメロとして聴いているような人のコンサートでギターを弾いたりもしたんです。
頻繁ではありませんでしたが、そういう仕事もやって来たんですよね。当然演歌の仕事や、スタジオで演歌系の演奏もした事もあります。
最初は何でも来た仕事は断れない立場でしたし、そういう仕事でも一生懸命演奏すれば、身にならない事は無かったですし、勉強になる事も沢山ありました。
そういう仕事の現場で、今はもうすでにお亡くなりになった一世を風靡した有名な歌手の方に「若いのにしっかりしたギターを弾くね。頑張りなさいね。」と言って頂いて、恐縮した事があります。
そうこうしているうちに、20代前半の早い時期にはニューミュージックと呼ばれる歌手の方のお手伝いが出来るようになったんですよ。
そこからは比較的自分でも弾いていて楽しかったし、やり甲斐のある曲も多かったし、最新のアレンジをしてある曲を弾いたりするのは本当に気持ち良かったんですよね。
あとは、やはりコンサートでの盛り上がりですね。盛り上がったコンサートのステージ上にいられるって、当時でも幸せに感じていました。
やはりスッポトライトの威力って凄いですよね!あの雰囲気の中でギターを弾く気分って、中々味わえないものだと思います。
辞めたくせに、今でもそういう所で弾きたい欲求ってあります。
私がやめる頃はすでに、チョットしたステージでは“バリライト”が流行始めた時代でした。
音楽活動当初から、私はどこの現場に行っても一番年下だった事は事実です。
24〜25歳の頃ですら、私と同じ年はおろか年下のミュージシャンはまず現場で見かける事は無かったし、現実に一緒に演奏した事もありませんでした。
その頃ですら大学を出てプロになった連中も、私より一つ二つ上のミュージシャンが一番多かったと思います。仲の良かったミュージシャン仲間も、その年代の人が一番多かったんです。
辞める2年くらい前から、自分の狙っていたアーティストのオーディション(当時はオーディションでミュージシャンを集めるのも結構多かったんです)にポツポツと落ちるようになったりしました。
そんな時合格したミュージシャンって、やはり上手いしすでに有名なところやバンドで演奏している人達だったんですよ。
私もそこそこの所では演奏していましたが、ビッグネームと言われるアーティストとの演奏はやはり私ランクでは声が掛からないんですよね。
大物系はやはり名のあるミュージシャンを使うわけだし、私達ランクとは一線を画していました。
その頃になって、ギタリストで私と変わらない年代の売れっ子ミュージシャンが4〜5人現れて、個人的に話しなんかもした人もいたんですが、やはり上手い。(今でも皆さんバリバリに活躍しています)
大物女性歌手と結婚したBというバンド出身の長身ギタリストH・Tなんかがスタジオで超売れ始めていた頃です。
彼のレコーディングを見て、ぶったまげました!
やはり凄いギターを弾くんですよ。
その他の人達も、私達がリハをしている所に訪ねて来たり、偶然隣のスタジオでリハをしていたりで、少しずつ面識が出来たりしたんですが、彼らもやはり凄くいいギターを弾いていました。
その中の一人のギタリストが、休憩中の私のスタジオ内のギターとラックの様子を15分くらいジッと見つめていたのが印象的でした。
彼も当時は坂本龍一さんのツアーに参加したりしていたんですよ。
そんな感じで、20代後半になるとやはり売れっ子と言われる世代の近いギタリストが出現し始めた事が、大きな影響を与えています。
自分のやりたいアーティストや仕事って、結構高望みな事もあったんですが、希望に叶う結果がついて来ませんでした。
そんな状態が2年くらい続いた頃、ある企画のディナーショーで毎回のように紅白に出る大物の女性歌手の仕事を頼まれました。その企画自体は、他のミュージシャンも良く知っているメンバーだったし、歌謡曲や演歌っぽくない曲をやるので、面白かったんですよ。
そのディナーショーが終わってしばらくして、事務所の方から「○○さんのバンドでギターを弾いてもらえませんか?」という話しが来て、かなり悩みました。
1本あたりのギャラは、当時私が平均して貰っていたギャラより3割安くらいの金額でした。
歌謡曲系では相場と言われている金額だったと思います。ただ、年間を通して仕事の本数が多いので、お金になる事は確かです・・・。
しかし自分で一番考えたり拘った事って、やはりプロを始めた頃にやっていたあまり好きではなかった系の音楽を今からやるのはチョットためらいがあったのと、その後自分がどこまで自分のやりたい演奏を出来る場に居る事が出来るのか?という事でした。
そんな事を色々考えて、その話は偉そうですが断ったんです。
音楽を辞める直接のきっかけは、その事でした。
周りの人から見れば、歌謡曲でも有名な歌手のバックならいいのではないかと思われますが、私はすでにプロとしてギターを弾いて来て10年が経っていました。
周りを見れば、同年代の上手いギタリストもたくさん出現して、自分の限界が冷静な目で自分を見た時にハッキリと分かったりしました。
音楽で収入を得る事は出来たとしても、好きな場所で好きなギターを弾けないのなら、ここでキッパリとギターを辞める事が自分にとって一番いいと思ったんです。(まだまだ子供だったんですかね)
辞める時に、自分のやって来た事のひとつひとつは、良い事ばかりだったと思いました。
中々良く頑張ったと思える10年間だったと今でも後悔はしていません。
楽器の話しやら色々書いて来ましたが、それでは何故まずまず(自分がそう思っているだけかもしれませんが・・・)の状況で音楽で生活が成り立っていたのに、キッパリ音楽を辞めたのか書くのも必要かな?と思います。
当時はやはり、歌謡曲系の歌手の方とニューミュージック系の歌手の方の線引きみたいなのはあったと思います。(演奏する側ももちろん)
最初にプロになって始めた仕事は、歌謡曲系の仕事ばかりでした。
信じられないでしょうが、私が18〜19歳の頃なんて私の両親がナツメロとして聴いているような人のコンサートでギターを弾いたりもしたんです。
頻繁ではありませんでしたが、そういう仕事もやって来たんですよね。当然演歌の仕事や、スタジオで演歌系の演奏もした事もあります。
最初は何でも来た仕事は断れない立場でしたし、そういう仕事でも一生懸命演奏すれば、身にならない事は無かったですし、勉強になる事も沢山ありました。
そういう仕事の現場で、今はもうすでにお亡くなりになった一世を風靡した有名な歌手の方に「若いのにしっかりしたギターを弾くね。頑張りなさいね。」と言って頂いて、恐縮した事があります。
そうこうしているうちに、20代前半の早い時期にはニューミュージックと呼ばれる歌手の方のお手伝いが出来るようになったんですよ。
そこからは比較的自分でも弾いていて楽しかったし、やり甲斐のある曲も多かったし、最新のアレンジをしてある曲を弾いたりするのは本当に気持ち良かったんですよね。
あとは、やはりコンサートでの盛り上がりですね。盛り上がったコンサートのステージ上にいられるって、当時でも幸せに感じていました。
やはりスッポトライトの威力って凄いですよね!あの雰囲気の中でギターを弾く気分って、中々味わえないものだと思います。
辞めたくせに、今でもそういう所で弾きたい欲求ってあります。
私がやめる頃はすでに、チョットしたステージでは“バリライト”が流行始めた時代でした。
音楽活動当初から、私はどこの現場に行っても一番年下だった事は事実です。
24〜25歳の頃ですら、私と同じ年はおろか年下のミュージシャンはまず現場で見かける事は無かったし、現実に一緒に演奏した事もありませんでした。
その頃ですら大学を出てプロになった連中も、私より一つ二つ上のミュージシャンが一番多かったと思います。仲の良かったミュージシャン仲間も、その年代の人が一番多かったんです。
辞める2年くらい前から、自分の狙っていたアーティストのオーディション(当時はオーディションでミュージシャンを集めるのも結構多かったんです)にポツポツと落ちるようになったりしました。
そんな時合格したミュージシャンって、やはり上手いしすでに有名なところやバンドで演奏している人達だったんですよ。
私もそこそこの所では演奏していましたが、ビッグネームと言われるアーティストとの演奏はやはり私ランクでは声が掛からないんですよね。
大物系はやはり名のあるミュージシャンを使うわけだし、私達ランクとは一線を画していました。
その頃になって、ギタリストで私と変わらない年代の売れっ子ミュージシャンが4〜5人現れて、個人的に話しなんかもした人もいたんですが、やはり上手い。(今でも皆さんバリバリに活躍しています)
大物女性歌手と結婚したBというバンド出身の長身ギタリストH・Tなんかがスタジオで超売れ始めていた頃です。
彼のレコーディングを見て、ぶったまげました!
やはり凄いギターを弾くんですよ。
その他の人達も、私達がリハをしている所に訪ねて来たり、偶然隣のスタジオでリハをしていたりで、少しずつ面識が出来たりしたんですが、彼らもやはり凄くいいギターを弾いていました。
その中の一人のギタリストが、休憩中の私のスタジオ内のギターとラックの様子を15分くらいジッと見つめていたのが印象的でした。
彼も当時は坂本龍一さんのツアーに参加したりしていたんですよ。
そんな感じで、20代後半になるとやはり売れっ子と言われる世代の近いギタリストが出現し始めた事が、大きな影響を与えています。
自分のやりたいアーティストや仕事って、結構高望みな事もあったんですが、希望に叶う結果がついて来ませんでした。
そんな状態が2年くらい続いた頃、ある企画のディナーショーで毎回のように紅白に出る大物の女性歌手の仕事を頼まれました。その企画自体は、他のミュージシャンも良く知っているメンバーだったし、歌謡曲や演歌っぽくない曲をやるので、面白かったんですよ。
そのディナーショーが終わってしばらくして、事務所の方から「○○さんのバンドでギターを弾いてもらえませんか?」という話しが来て、かなり悩みました。
1本あたりのギャラは、当時私が平均して貰っていたギャラより3割安くらいの金額でした。
歌謡曲系では相場と言われている金額だったと思います。ただ、年間を通して仕事の本数が多いので、お金になる事は確かです・・・。
しかし自分で一番考えたり拘った事って、やはりプロを始めた頃にやっていたあまり好きではなかった系の音楽を今からやるのはチョットためらいがあったのと、その後自分がどこまで自分のやりたい演奏を出来る場に居る事が出来るのか?という事でした。
そんな事を色々考えて、その話は偉そうですが断ったんです。
音楽を辞める直接のきっかけは、その事でした。
周りの人から見れば、歌謡曲でも有名な歌手のバックならいいのではないかと思われますが、私はすでにプロとしてギターを弾いて来て10年が経っていました。
周りを見れば、同年代の上手いギタリストもたくさん出現して、自分の限界が冷静な目で自分を見た時にハッキリと分かったりしました。
音楽で収入を得る事は出来たとしても、好きな場所で好きなギターを弾けないのなら、ここでキッパリとギターを辞める事が自分にとって一番いいと思ったんです。(まだまだ子供だったんですかね)
辞める時に、自分のやって来た事のひとつひとつは、良い事ばかりだったと思いました。
中々良く頑張ったと思える10年間だったと今でも後悔はしていません。




